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ブロンクスに愛をこめて ヤンキースタジアム物語

1,狂乱の20年代を告げる号砲はマンハッタンで放たれた

1920年、レッドソックスから放出されたエース、ベーブ・ルースは当時お世辞にも強いと言えなかったヤンキースのユニフォームを着ることになった。
当時のヤンキースは多くのチームのお下がりで選手を編成していた。サードにアスレチックスのサード、ホームラン・ベイカー、レッドソックスのダフィー・ルイスと言った有名な選手からタイガースでメジャーデビューし、マイナーに戻った後ヤンキースでファーストを務めたウォーリー・ヒップやインディアンズからロジャー・ペッケンバーグといった流れ者の集団であり、一瞬だけ強くなるけれど気付いてみたらよくて中堅、いつも弱小というようなチームであった。
当時のニューヨークにはマンハッタンはポロ・グラウンドに本拠地を構えるジャイアンツが、ブルックリンはエベッツフィールドに本拠地を構えるドジャースがおり、ヤンキースは間借りに等しい形でポロ・グラウンドに軒を構えている、顔というにはほど遠い存在であった。
それがベーブ・ルースの登場により一転する。

第一次世界大戦、スペイン風邪を乗り越えたアメリカは大統領ウォーレン・ハーディングによるノーマルシーの元、多くのものが文化圏回復をしていく。ジャズが花咲き、淑女からフラッパーへ、と社会が大きなうねりを受けて変化していく。自動車、映画、ラジオが時代の流れを受けて成長を始める時期でもあった。

その時にボストンのオーナー、ハリー・フレイジーは給与支払いの問題からエースであったベーブ・ルースを放出。前年に本格的に台頭してきたアンダーハンド、カール・メイズも放出しているところであったからフレイジーがいかにレッドソックスの緊縮を行いたかったかが分かる。この後レッドソックスは大きく低迷。その選手解雇劇を象徴する存在としてベーブ・ルースを取り上げ、レッドソックスが勝てない象徴、通称「バンビーノの呪い」として名を残すことになる。

ともかくしてベーブ・ルースは1920年から打った。
10本打てばホームラン王の時代にも関わらず打ちまくった。そこで生まれた54本という本塁打は同僚のウォーリー・ヒップ、アーロン・ウォードが共に11本で二位と考えれば怪物というほかない。

ホームランがいつでも見られる。
鉄筋コンクリート造の球場が本格的に増えてきた1910年代。ホームランは決して遠い存在でもなくなりつつあった。ボール品質の問題もあったが、それでも作って10年も経っていない新しい球場で華やかに放たれるホームランは野球が新しいステージに来た事への象徴ともなる。
この後ボールの品質も変わり、ライブボール時代と変化していく中でベーブ・ルースは野球の王様と呼ばれるようになっていく。

しかし、それに待ったをかけた人物がいる。
ニューヨーク・ジャイアンツ監督にしてオーナーであったジョン・マグロ―が自身のチームであるジャイアンツの集客を取られかねないとヤンキースのポロ・グラウンズ使用を禁止。今では考えられない事ではあったが、チームのオーナーが野球に関わる多くのものに権限を持っていたおおらかな時代だからこそ起きた事であった。
そうでなくとも当時のニューヨークにおいてジャイアンツの存在は絶大。この10余年後、東洋の小さな島国の野球チームがアメリカにやってきたが、その名前を付ける際に「ジャイアンツ」としたのはこの時代の影響が非常に強い。それほど「ジャイアンツ」と言えばニューヨーク、ひいてはアメリカ野球の象徴であったのだ。
そのチームを率いる「The giant」というべき男が言ったらもうヤンキースは使用が叶わない。

当時マンハッタンに新球場を立ち上げようと画策するものの土地の高騰により失敗。そこで市長フィオレロ・ラガーティアはある場所を提案する。
マンハッタンの反対にあるブロンクスに土地があるので球場を建ててはどうか、と。
これが歴史の1ページ目になる。

2,移民の街、ブロンクス

1641年、入植したオランダ人「ヨナス・ブロンクス」によって開拓されたこの都市は1920年代以降、多くの移民によって急成長を遂げていく事になる。
多くがアイルランド人、ユダヤ人、イタリア人などであった。金の持たない彼らはコミュニティを形成。これが後のカルテルとして力を持っていく。
そのカルテルによってシチリアなどのマフィアが入り、禁酒法時代には多くのもぐり酒場などが生まれた。
今日でもブロンクスは治安のあまりよい土地とされていないが、それはこういった歴史的背景がある。軍港として人が集まったブルックリンと違い、狂乱の20年代、禁酒法、そして資本力を強く持たない移民の住む町であったからこそ治安の悪さが今日も歴史として残っている。

そこに一つの球場が建てられることになった。
230日という短い期間で建てられたその球場はヤンキースの名を取り、ヤンキースタジアムとされる。アメリカ東部でも北部に住む白人男性を「ヤンキー」と呼んでいたから、当時の実体はどうであれ「白人男性共のための白人の野球場」が生まれたわけである。
こう考えてみるといかにヤンキースにとってベーブ・ルースの存在が大きかったのかが分かる。ニューヨークの象徴はあくまでジャイアンツであり、ヤンキースはせいぜい正当性を言っているだけの存在だ。そうでなくても現在と違いナショナルリーグの存在が強かった時代。ヤンキースと豪語したところで鳴くのは閑古鳥くらいなものだろう。
それを変え、それどころかジャイアンツをニューヨークの象徴から追いやるまでに成長するのがこのヤンキースタジアムなのである。

そう考えてみると以前の時代、ヤンキースとメッツのファン層が大まかに分かれている事は有名だが、いわゆるホワイトカラーがヤンキースを応援する傾向にある、というのは面白い。メッツはいわゆるドジャースの流れを汲んだファンがいるから、というのは分かるにせよ、ジャイアンツがいたためにマンハッタンから追い出され、移民と無法のブロンクスに「the america」といわんばかりのチームのホームになったのは面白い。
ブロンクスに追いやられた男達はアメリカの象徴となったのである。
その立役者、いや、狂乱の20年代を加味すると
「野球こそがアメリカ」
とまで持っていく事になったベーブ・ルース、ニューヨーク・ヤンキース、ヤンキースタジアムのつかず離れずな関係は奇妙である。ルースがいなければヤンキースはここまでにならなかったし、ヤンキースの人気にマグロ―が怒らなければヤンキースタジアムはなく、ブロンクスは今も危険な区域としてホワイトカラーは近づきたがらない場所であったのかもしれない。
そんな歴史の一端がこのようなところから読み取る事が出来るのだ。

3,ヤンキーの象徴とベーブ・ルースのホームラン

ルースの活躍は今更触れる必要もないであろう。
現在もアメリカの野球で60という数字は特別な意味を持つし、それによって一人の選手、それもヤンキースの選手が悲劇に見舞われている。そしてそれを2022年、同じくヤンキースの選手が塗り替えた事は記憶に新しい。

しかしなぜこれほどまでベーブ・ルースは神格化されているのかを考えた事はあるだろうか。
確かに野球では大きな意味合いを持つ。大谷翔平以降ヤンキース時代より前のルースの話が出てきているほどで、彼が打撃のみならず投打に優れていた事を我々は今改めて知る事が出来るようになった。
しかしそれはあくまで野球だけでの話である。ルースはジャッキー・ロビンソンのようにアフリカ系アメリカ人、いわゆる黒人の公民権運動の担い手になったわけではないし、ロベルト・クレメンテのようにプエルトリコの象徴ともなっていない。フィデル・カストロのように共産主義国家を作ったわけでもない。ただ、一野球人としてホームランをバカスカ打っていただけである。

それは1920年代という時代が関係している。
最初に書いたようにノーマルシーをマニフェストとして様々な文化的復興が行われたのが1920年代、通称狂乱の20年代だ。
1919年にはアメリカ南部の黒人たちが北部を目指し、その流れで南部の音楽であったジャズがシカゴの酒場を中心に花咲き、女性の服や貞操観念が変わり、自動車などの多くの文化様式が生まれていった。
ラジオなども生まれ、映画も本格的に台頭。人は自分がその場にいなくても誰が何をしていたのかを知る事が出来る時代になっていった。今までの時代とは明らかに変わっていった時であったのだ。

そこに新しいニューヨークの象徴として、ベーブ・ルースがホームランと共にやってきた。1923年4月18日、因縁のレッドソックス戦に74,217人が駆け付けたのはもはやルースとホームランが新たな時代の象徴となった事を示唆している。もはやニューヨークの象徴はマグロ―とジャイアンツではなくなりつつあった。1921,1922と連覇しているにも関わらずである。
そんな時代の変わり目に応えるかのようにルースは打った。なんだかんだ1922年までヤンキースはポロ・グラウンズを使い続けたのでもはやニューヨーカーにとってルースの存在は確立されていたのだ。

そしてヤンキースタジアム初年度の1923年。ルース、ピップ、台頭してきた若き主砲にしてルースから本塁打王を奪った経験もするボブ・ミューゼルらによってマーダーズロウ、通称殺人打線を形成しワールドシリーズチャンピオン。しかも相手は奇しくもあのジャイアンツ。
ここにおいて狂乱の20年代、アメリカの娯楽の一つに野球、いや、ヤンキースとルースのホームランが書き加えられることになったのである。
この翌年1924年には21歳のルー・ゲーリッグがメジャーデビューし翌年にはピップからスタメンを奪いとる。そしてマーダーズロウは本格的に形成されて行くことになった。

そこにはニューヨークにはあまり関係のないア・リーグの、何とも言えないチームであった元ニューヨーク・ハイランダーズの名前が変わった看板落ちのヤンキースの姿はなく、ニューヨークの新たな象徴としてニューヨーク・ヤンキース、ヤンキースタジアムの名前が加わっていく事になる。

4,フランク・シナトラの歌うニューヨーク・ニューヨークは今日もブロンクスに流れる

ニューヨーク・ヤンキースが現在不動の存在になったのは言うまでもないが、そのヤンキースがホームで勝利したときに流れるのがイタリア系アメリカ人であるフランク・シナトラの「New York,New York」だ。題名を知らなくても歌を聴けば日本人であってもピンと来るであろう。
これはよく知られているが元々New York,New Yorkはフランク・シナトラの持ち歌ではない。同名映画「ニューヨーク・ニューヨーク」で同じくイタリア系アメリカ人であるライザ・ミネリが歌ったものが初出だ。その後に1980年にシナトラがカヴァーしたものだ。
非公式の市歌、とも呼ばれるこの曲が、何故シナトラ版で歌われるのだろうか。

シナトラはイタリア系アメリカ人として多くの交友があった事は有名だろう。シナトラを知るうえでマフィアとの噂が絶えないのは本人の素質だけでなくイタリア系というところも多く関わってくる。
ブロンクスは貧民のイタリア系アメリカ人が多く住み、そこでカルテルが形成されて行ったというのは話した。それはシナトラ、ミネリ含め多くのイタリア系アメリカ人を語る上で外す事は出来ない事象であろう。望む、望まないに関わらずカルテルの中で生きなければならなかったのがイタリア系でもあるのだ。
その彼がThe voiceと呼ばれるほどの栄光を勝ち取ったのは貧民やごろつきが生きるためにアメリカを求めていった姿にも酷似し、そして現在も成長を続けるアメリカの象徴たるニューヨークにも通ずる。
そしてその中でもおおよそ裕福層がいなかった、多くのイタリア系アメリカ人の住むブロンクスに狂乱の20年代を得てアメリカの象徴となる「ベースボール」の象徴たるベーブ・ルース、ヤンキース、ヤンキースタジアムが入ってきた。
また追記すればシナトラ自身もニューヨーク州の田舎であるホーボーケン出身であるのも面白い。ニューヨークを象徴する野球場で歌うイタリア系の伊達男は野球の故郷で生まれたのだ。
そしてその象徴を作り上げていったのがイタリアがあれほど嫌うドイツ系のルースというのも面白い。多くの人種が折り重なっていく様はまさにアメリカの歴史そのものであり、ヤンキースタジアムにその一端が詰められているのだ。

かくして今日もフランク・シナトラのニューヨーク・ニューヨークは流れる。
ドイツ系のルースが建てた家と呼ばれたヤンキースタジアムで、イタリア系のシナトラが歌うのだ。アフリカ系をアメリカの歴史書に書き示していったのが同じくニューヨークのブルックリン・ドジャースであるならば、アメリカに移民してきた白人の歴史を刻んだのがジャイアンツの影に居続けたニューヨーク・ヤンキースであったのだ。

最早ニューヨークの象徴はヤンキースである事を疑う者はほとんどいないであろう。過去日本で「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたようにニューヨークとヤンキースは切っても切り離せない存在にある。これは数奇なめぐりあわせの中ニューヨークの二大巨頭となっているメッツには出来ない事だ。東京と言えばどうしても巨人の名前が挙がってしまうように、ニューヨークと言えばヤンキースとなる。これは歴史が作ってきたものなのだ。

それを理解しているかのようにヤンキースタジアムでは、国民的歌手であったシナトラの「New York,New York」が流れる。それを口ずさむニューヨーカーにとっては自分のいる場所を再確認する行為でもあるのだろう。

「ベーブ・ルースの建てた家」はニューヨーカーの故郷なのだ。
だから、This is America,This is New Yorkと言わんばかりに今日もヤンキースタジアムは野球をしているのだ。

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