空模様 第1話

登山道に吹く風はなく10月にしては少し暑いくらいだったが、見上げた空には巻雲があり,その下を綿雲がゆっくりと東に流れ杉林の向こうに消えていった.

(秋の風が吹き始めているのか)

ほとんどの山が1500Mを越えない丹沢の10月は紅葉にはまだ早く,移動性高気圧が張りだした穏やかな気圧配置の時は、今日のように夏の名残りを思わせる陽気の日も多かった。それでも秋は着実に近づいているようだった。

(やっぱり山はいいな)

社内の親睦登山とはいえ山を歩くのは楽しかった。池本和彦は久しぶりに背負ったザックの重みを心地よく感じながら道端に延びるススキの穂を眺めた。本当は一人で歩くのが好きなのだが、年甲斐もなく40半ばを過ぎて習い始めた護身術で負傷した脚のリハビリには、このくらいがちょうどよさそうだった。

「池本くん,ちょっと休憩しないか?」

今回の社内親睦登山を発案した課長の尾川貴志が額に滲ませた汗をハンカチで拭いながら話かけてきた.黒縁眼鏡を掛け,180センチ近い長身に白髪の混じったおかっぱ頭,ベルトのうえに乗った脂肪さえなければ長身がゆえスリムに見えなくもないが,今年から健康のためにと始めた登山ウエアが張り付いた腹のシルエットは隠しようがなかった.入社以来、いや採用面接のときから、いつも人のあら捜しをしているような態度と目つきをしているこの男のことが池本はどうしても好きになれなかった。

「でも歩き始めてまだ15分しか経ってませんよ」

ポケットから取り出した地図を見ながら言った.

「いや~,山が初めての人もいるんだしさ,無理はしないほうがいいんじゃないかな?」

本当は自分が一番休みたいのではないかと思ったが、振り返ってみると赤い顔をして額に汗を浮かべている者が何名かいた.確かにバスを降りてすぐの朝イチは調子がでない。だから早めに休憩をとるつもりだったのだが、せめて30分くらいは歩いて欲しかった。
(しょうがないなあ)
道が狭いので、その場所での休憩には少々無理があった.

「じゃあ,いい場所があったらちょと休みましょう」
そういいながら池本は地図をポケットに戻した.

池本が興行通信という業界紙を発行する出版社で働きだしてから半年ほどが経つ.出版社とはいっても会長が父親,専務が母親,社長がその息子といういわゆる3ちゃん企業で従業員は派遣も含めて15名ほどしかいない.業界紙と言えばかっこはいいが、馴染みの業者の定期購読で何とか採算を合わせている小さな出版社だ。中学生の作文程度の筆力とちょっとした取材能力さえあれば記事が書ける『電話新聞』という週刊新聞と、定期購読料を稼ぐために無理やり創刊した通信工事担当者向けの月刊『LAN』の2冊の発行でなんとかやりくりしていた。池本は、前職である雑誌編集の経験を買われ月刊『LAN』の編集長代理として雇われた。

課長の尾川は某国立大学を出て新卒でこの会社に入社した生粋の社員らしく社長からの信頼は厚いようだった。なんでも池本が入社する10年ほどまえ組合結成騒動があり当時主力だった中核社員が辞め、残っているのは細々と組合活動をしている古参社員と騒動後に入社した若い中途採用の社員だけ。そういう話を古参社員の稲本昭文と飲みに行ったときに聞かされた。組合結成に向けての決起集会のとき約束の時間と場所に尾川は現れなかったという。「だからアイツは大した能力もないのに課長になれたんだ。オレたちからすれば、アイツは裏切り者なんだよ」という話を酔った稲本から延々と聞かされた。
後から気が付いたのだが、その飲み会そのものは池本を組合に誘うためのものだったらしい。前職の苦い経験から会社と組合のゴタゴタに巻き込まれることを嫌った池本は結局組合には入らなかった。

組合に入るか入らないかは個人の自由だ。だから一方的に尾川の行動を非難することはできないが、入社して半年間、尾川の下で働いた経験から稲本の言いたいことの本意は理解できた。
(確かに、アイツならきっと裏切るな)

そんな経緯もあって稲本をはじめとする古参組合員は誰も参加していない。だから毎年恒例で行っているとはいうが正確には社員慰労旅行ではなく尾川グループの単なる有志のサークル活動のようなものだ。

発案したのはいいが登山をやっているといってもハイキングに毛の生えた程度の経験しかない尾川にメンバーの力量を推し量ってのプランニングなどできようはずもなかった.池本が入社する前は高尾山などにも行っていたようだがそのレベルでは飽き足らず、ハイキングから登山へステップアップしたいと思っていたところ、ちょうとどよいタイミングで入社してきた池本に白羽の矢が立ったというわけだ。面接のときに高校時代に山岳部だったということを覚えていたのだろう。乗り気はしなかったが、入社したばかりの池本にとって直属の上司からの要請を無碍に断ることもできなかった.

参加メンバーの20代後半の女性から50半ばの課長の尾川まで7名。老若男女が登ることのできるコースを、できればハイキングではなく登山というイメージで考えて欲しい、というリクエストに沿って池本がプランしたのが,神奈川県の丹沢山地にある大山だった.

大山は標高1242メートル.東京都心部からも富士山の前に横たわる丹沢山塊の一番左にキレイな三角形として望むことができる丹沢のランドマーク的存在だ.登山ルートはなん本かあり,中腹にある阿夫利神社までは麓からケーブルカーも運行されている.池本が大山に初めて登ったのは小学校5年の遠足だった.それ以来春夏秋冬,何度となく登ったことのある馴染みの山だった.

池本はそのなかから,塔ノ岳から続く表尾根と大山の鞍部にあるヤビツ峠からイタツミ尾根を登り,下りはケーブルカーの駅がある下社から続く表参道を下るコースを選んだ.当然初心者向けのコースだ。通常なら小田急線の伊勢原駅からバスに乗り、大山と丹沢表尾根の東端,三ノ塔からニノ塔へと続く尾根がぶつかる最低鞍部のヤビツ峠まで運行しているのだが,先月の台風の影響で途中,道に土砂が堆積してしまったところがあるため手前の蓑毛という集落までの運行となっていた.その分時間は掛かるが蓑毛からヤビツ峠までの小一時間がちょうど良いウォーミングアップになると思ったからだ。

蓑毛は小さな集落だが冬期バスの折り返し地点でトイレやベンチ、自動販売機などがある。ここで身支度を済ませ、小さな渓流沿いの登り坂を歩き始める。途中まで民家や神社があるので車も通行できる林道になっているが15分も歩くと登山道といってくらいの道幅になる。一行はその道を歩いているところだった。

しばらく歩くと道が小さな沢を渡るところに少し開けた場所があった。池本はそこで休憩を取ることにした。

「じゃあこのへんで休憩しましょうか」

池本はそう言いながら道端の岩にザックを下ろした。

(第2話に続く)

#登山 #小説 #エッセイ



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