空模様 第3話

イタツミ尾根はヤビツ峠から大山に向けて一気に高度を上げていく。上り始めは北東へと登り、標高949メートルの春岳山の山頂南面を横切ると東に向かい、阿夫利神社下社から登ってくる表参道と合流する。そこから頂上までは10分ほどの登りで標高1249メートルの山頂に着く。コースタイムではヤビツ峠から1時間ほどだ.

とくに危険なところのない登山道だが蓑毛からヤビツ峠までの道に比べると傾斜もきつく、ところどころにちょっとした岩場や鎖が現れる箇所もあった。

展望はよく、丹沢表尾根の山々とその主役たる塔ノ岳、そこから北に延びる主脈縦走路の丹沢山を望むことができ、いかにも登山をしている雰囲気を味わうことができた。

塔ノ岳や丹沢山は池本にとっては懐かしい山々だった。初めて塔ノ岳に登ったのは中学2年のときだった。仲の良い3人で麓のキャンプ場にテントを張りそこから日帰りで登れる山々を歩いた。通称「バカ尾根」と呼ばれる大倉尾根を登り丹沢山まで足を延ばした. 丹沢山から北東に続く丹沢三峰は高校山岳部時代に苦しい歩荷訓練で息を切らせた山々だ.

そんな風景を眺めながら,一行はヤビツ峠から1時間半ほどして大山の山頂直下の鳥居のある石段まで登ってきた.オカッパ頭の尾川が手袋をなくしたと騒いだ以外とくに問題はおきなかったが、自分で企画を通しておきながら、ヤビツ峠までバスが行かないのであれば別のコースにすべきだったんじやないか,経験の浅い人もいたのだからケーブルカーを使って表参道を往復するコースのほうが良かったのではないか、などと不満を並べ立てた。そのたびに池本は「そうですね」とだけ返事をし、二度と尾川の登山には付き合わないと心に決めた。そうは言っても、コースを選んだ以上,無事に全員を下山させるまではという責任感は感じていた.

池本たちの一行が頂上への最後の石段を登っているちょうどそのとき,その脇を小学生1~2年生くらいの男の子が駆け上がって行った.

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「お父さん、もうすぐ頂上!」

田原陸人は、そう言いながら石段を駆け上っていった.

「走るな! 転ぶぞ!」

父親の田原修一は,息を切らせながら息子にそう言った.

この日,田原修一は息子の陸人を連れてこの大山登山にやってきた.若いころ当時の友人と一度登ったことがあるが10年以上昔のことだった.ルートは今回と同じく小田急線の伊勢原駅からバスで大山登山口に行き,ケーブルカーで阿夫利神社下社へ.そこから表参道と呼ばれる上社のある大山山頂まで直登するルードだ.

陸人にとっては初めての登山ということもあり,修一は登ったことある大山を選んだ.下社からの参道入り口は,いきなり傾斜のキツイ石段で洗礼を受け,しかも山頂近くまで展望も望めないが,ほぼ一本道で特に危険な個所がないということも選んだ理由だった.

「たまには陸人と二人で行ってくれば? お弁当つくるから」
生まれたばかりの陸人の弟をあやしながら,妻はそう言って二人を送りだした.

大山山頂の標識で記念写真を撮った修一と陸人は,人込みを避け山頂北側の開けた場所で母親の作ってくれた弁当を広げた.

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頂上に到着した池本たちも各自昼食をとっていた.
大束以外の社員とあまり話をしたこともない池本は,他のメンバーと少し離れたところで一人おにぎりを食べていた.いつも単独で山に登っている池本にとって,昼食という概念はなく,ちょっとした休憩時にミックスナッツや甘納豆,チョコレートなどを少しずつ口に入れるスタイルだったが,今回は他のメンバーに合わせてコンビニで買ったおにぎりを持ってきていた.

「池本さん.紅茶飲みませんか? カップあります?」

大束明子が魔法瓶をもって声を掛けてきた.

「いや,もってないっす」

「じゃあ,このフタで」
と言いながら,魔法瓶の中身をフタに注いで池本に差し出す.

紅茶は普段ほとんど飲まないが,レモンの香りのする暖かくて甘い紅茶は美味しかった.

「ありがとう.美味しかったです」

「下りは来た道と違うところに降りるんですよね」
大束明子はカップを魔法瓶に戻しながら聞いた.

「さっき石段の前のところで下社から登ってくる道と合流しましたよね.あの道を下りていくんです」

そのとき,総務の岩本が近づいてきて池本に話かけた.
「池本さん,間に合いますよね」

「え,何がですか?」

「懇親会ですよ」

今回の山行は,下山後にバスで伊勢原駅に行き,駅前の居酒屋で懇親会をやるというオプションがついていた.酒が飲めないわけではないが大人数での飲み会は苦手だった.だが池本の歓迎会の意味合いもあると言われ,仕方なく参加することにしたのだ.

「何時からでしたっけ?」

「6時からです.部長が懇親会をすごく楽しみにしていて,時間は大丈夫だろうねって何回も聞かれるもんで」

岩本は,ちょっと不満そうに答えた.

「大丈夫だと思いますよ.今,1時半だから,2時に降り始めたとしてケーブルカーの駅まで,たぶん1時間半くらい,そこから下の駅に4時についたとして参道を土産物を見ながらゆっくり下ってもバス停には4時半くらいまでには着けると思うんで.バスで小一時間かかったとしても6時までには余裕で駅に着けるんじゃないですか」

それを聞くと岩本は安心したように去っていった.

改めて地図を開いてコースタイムを確認した.普通に下ればコースタイムの1.5倍くらいの時間で歩いたとしても十分に間に合う計算だった.

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田原修一と息子の陸人は,昼食を終えると富士山をバックに記念写真を撮ってから下山を始めた.

頂上から下社へは,ヤビツ峠から登ってきた道との合流点を右に見送り,そのまま真っすぐに下っていく.登山道部分が掘れた溝のようになった地形で左右が杉の林になってため展望がきかない.
足元は石段や木を組んだ階段状になっている.駆け下ったり,うかつに濡れた木の上に無造作に足を置いたりすると滑る可能性はあるが,特に危険というところはない.

基本的にはわかり易い道で迷うようなところはないのだが,一か所,”天狗の鼻つき岩”というあたりから出発地点である蓑毛の方向に下る道が分岐している.頂上から真っすぐに下ってきた道は,この分岐で一度左に90度曲がり,それからまたまっすぐに下っていく.下社に行くには,ここを左に曲がるのだが真っすぐ下ってくると,その道は見えない角度になっている.
一方,蓑毛方面に下る道は,メインの参道よりもかなり細いのだが,時計の針では2時の方向となっていた.もちろん分岐には道標があり,はっきり下社への道が案内されている.時々間違えそうになる人もいるようだが,登山道としては特段に注意を要する箇所というほどでもなかった.

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田原陸人は,勢いよく下山道を駆け下りていた.最初は父親と一緒にくだっていたのだが,ゆっくり降りる父親のペースに我慢できなくなり,駆け下るようなスピードで降り始めてしまった.
「おーい,待てよー」
という父親の声を聴きながら,
「はーい」と返事をして(もう少し先のほうまで行って待ってればいいや)
と,父親の言葉などまるで聞こえないかのように,陸人は自分と同じように下る人や,午後から登ってくる人を器用に縫いながらしばらく駆け下ったところで立ち止まり父親を待つことにした.

しかし,5分,10分と過ぎても父親は降りてこなかった.父親だけではない,さっきまであれほど賑やかだった参道の人々の姿さえ周りには見えなくなっていた.

(第4話に続く)

#登山 #小説 #エッセイ


















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