空模様 第2話

「池本さんは山岳部だったんでしょ? 冬山とか岩登りとかもやってたんですか?」

隣に腰を下ろしたデザイナーの大束明子が首にかけたタオルで汗を拭きながらが言った。

「冬って言ってもせいぜい3月の八ヶ岳とかくらいで、厳冬期の北アルプスとかは全然行ってないです。岩登りはやってみたいんですけど、今のところは沢登りくらいですね」。

歳はおそらく40代前半、同じくらいだろうか。池本より半年ほど前に中途採用で働き始めた転職組みだ。結婚はしているが子どもはいないらしい。理由はわからない。最近健康のため山歩き始めたらしい、という話を同じ部署の女性社員から聞いた。社内では池本が担当する月刊『LAN』のデザインや表紙を担当していたがあまりプライベートなことまで話をしたことはなかった。

「3月の八ヶ岳っていっても雪はたくさんあるんでしょ?」

「そうですね。1月や2月のような寒さはないですけど、雪はまだまだありますよ。雪崩は厳冬期よりも多いくらいかな」

「えー、雪崩。怖いですねー」

「大束さんって前は大手出版社でデザインやってたんですよね。なんでこの会社に来たんですか?」

「んー、ちょっと身体を壊してね。あまり無理できないから、このくらいの規模の会社のほうがいいかなって。へへっ」。

どうやら、そのあたりの話はあまり触れない方がよさそうだった。

「池本さんって前の会社で山登りとかキャンプの雑誌作ってたんでしょ。事務の木村さんが言ってたよ。趣味が仕事の対象っていいですね~」。

「最初はよかったんですけど。いいことばかりでもないですよ。仕事と遊びの線引きがつかなくなるっていうか、夜討ち朝駆けで釣りのロケに行くこともあるし。締め切り前の徹夜なんてしょっちゅうで身体もキツイから若いうちしかできないですよ」。

そう言いながら池本は美砂子のことを思い出していた。美砂子とは6年付き合った末に結婚したが1年もしないうちに別れてしまった。雑誌編集という仕事柄帰りはいつも遅く、締め切り間際になるとほぼ毎日終電での帰宅となる。翌朝は昼頃に出社するので一般の企業でOLとして働いていた美砂子とは、どうしてもすれ違いの生活となった。別れ話になった時、心が離れたと美砂子は言っていた。しかしその半年後、同じ会社の同僚と付き合っているらしい、ということをかつての別の同僚から聞いて知っていた。

そんなことを思い出していたら護身術のトレーニングのためにやめた煙草が無性に吸いたくなった。池本は大束との話を切り上げ、出発の合図をして立ち上がった。

休息をした沢を越えると道は少しずつ傾斜を増しながら南向きの杉林を縫うようにジグザクに登りながら高度を上げていく。ときどき相模平野が望めるポイントがあり空気が澄んでいれば遠く江の島まで望むことができた。池本は立ち止まってしばし遠くに輝く海を見つめていた。

(そういえば、美砂子とも一度この道を歩いたことがあった)

付き合い初めて半年したころのことだった。「山に行ってみないか?」そう言って半ば強引に美砂子を連れてきた。その時はヤビツ峠までバスで行かれたにも関わらずあえてこの道を登った。「ね、あれ江の島だよね!」そう言って嬉しそうに笑っていた。

「池本さん。峠まであとどれくらいですかね?」

背後から突然話しかけられて驚いた。気配がしなかったからだ。護身術のトレーニングをしていることもあって気配には敏感なはずだったのだが、なぜかまったく気が付かなかった。

話かけてきたのは総務の岩本博則だった。池本より歳は下で数年前に中途採用で入社したときは月刊『LAN』の記者だったらしい。記者としての能力はそれなりだが、手先が器用でコンピューターに詳しいということで部長の尾川に重宝がられ、ちょうど社内の古くなったネットワークシステムの入れ替えなどのとき業者との交渉などを任された。それをきっかけに古くなったパソコンやソフトの入れ替えなどのこまごました業務を言いつけられるようになり、結果的に総務に回されてしまったらしい。総務と言っても小さな会社だから机は尾川のすぐ隣だ。尾川にとっては便利な秘書のようなものなのだろう。

年齢はおそらく30半ば。細見の身体にクセのある髪、気弱で神経質そうに見える尖った鼻と細い顎。ちょっと公家を思わせるような整った顔だち。小さな出版社には似合わないダークストライプの入ったスーツをきっちりと着込んでいた。興行通信に来る前は電子機器メーカーで取り扱い説明書の制作をしていたという。コンピューターに詳しいのは前職の影響もあるのだろう。池本が入社したときは新しいパソコンの準備や社内ネットワークへの接続などを手伝ってくれた。人当たりはいいが自分から積極的に意見を言うというようなタイプではない。いつも少し怯えたような目をしていて、相手の顔色を窺ってから対応する、というようなあった。そういうところが取材記者としては向いていなかったということか。

突然、思考に立ち入るように話かけてきた岩本に対し本能的に不快な思いをしたものの、それも自分の未熟さと思い直した。

「そうですね。たいぶ登ってきたからあと10分くらいじゃないですか」。

池本は不快感を読み取られないようして答えた。

「そうですか。いえ、尾川部長がさっきから、まだ峠にはつかないのかって、そればっかり聞くもので」。

「峠はもうすぐだけど、それでまだ頂上までの半分ですよ」。

年は下だが親しいわけでもなく、他の部署の者ということもあり、岩本へは敬語を使っていた。

「そうですよね。ボクもそう思ったんですけど……」。

「峠に着いたら休憩しますから。もう少し頑張ってくださいって部長に言ってください」。

池本はそう言って空を見上げるようにしてザックを背負い直した。重いわけではない。話を終えたかったのだ。岩本をその場に残し池本は歩き始めた。歩きながら、尾川と岩本の人間関係をどこかでみたことがあるような気がしていた。どこだろうと考えながら歩いた。そして ”腰ぎんちゃく” という言葉に思い至り、やっと
(『坊ちゃん』に登場する赤シャツと野だいこだ)
と気が付いた。

(オカッパ頭と便利くんだな)。

我ながらいいことに気が付いた、と思ったら少し気分が軽くなった。

岩本に言ったことは嘘でなかった。これまでの経験から峠が近いことはわかっている。ここからあと数回折り返しながら登ると左手の谷を挟んだ斜面に車道が見え隠れするようになる。本来バスが通行するはずのヤビツ峠への車道だ。折り返しが終わると傾斜を緩めながらトラバース気味に西へ向かい、る車道との高低差がなくなったところが峠だ。

「もう峠に着きますよ」

ペースをつくるため先頭を歩いていた池本は後ろを振り返ってそう言った。オカッパ頭の尾川もなんとか頑張っている。

最後の緩い斜面を100メートルほど進むと標高761メートルのヤビツ峠に到着した。ロータリーになっている峠にはバス停、駐車場、自動販売機、トイレなどがあり一段高くなったイタツミ尾根の末端はちょっとした広場になっている。

腕時計を見ると10時35分になっていた。蓑毛を出発して1時間30分。登山地図のコースタイムでは約1時間なので、歩きだしの様子からすればまあまあのタイムだろうか。ここからはイタツミ尾根の上をたどる本格的な登山道になる。目指す大山の頂上へはここから2.3キロ、約1時間の尾根歩きだ。ここで少し長めに休んでも、何もなければ昼までには頂上に着けそうだった。

(第3話に続く)

#登山 #小説 #エッセイ




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