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ものがたりのその先へーフィボナッチ数列、淋しみ、回しつづけていくことの意義ー

平成から令和へ。

元号が変わる、という非常に重要な日。この移り変わりの日に思い出すことは、夏目漱石の「こころ」だ。その中で明治天皇の崩御に伴い時代が移るなか、この中で乃木大将が「明治の精神」といったものとともに殉死したことが描かれている。

私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。

この物語の最後は、乃木大将の殉死に触れ、これまで様々募ってきた“先生”が、“私”に最後の遺書を託していくところで終わっている。

平成から元号が変わる夜、私は果たして「平成の精神」なるものを感じているのだろうか。

平成の世がどうか、というのはわからないが、先述の『こころ』において、主人公の1人である“先生”は、近現代についてこう話している。

自由と独立と己れに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう。

これまでなされてきたさまざまな共同体から自由になった今、人は淋しみを味わっているということだ。

個人として分解して淋しみを味わう。その想いのバトンを“私”に渡していく。このものがたりには、その受け取ったバトンをどうしていくか、描かれていない。

本当に淋しいのか。個であることはそんなに寂しいのか。

ここで話を別の角度に移す。馬骨である私が敬愛してやまない平沢進の話から引用する。

素数またはフィボナッチ数である数字、233。唯一無二の数。すなわちそれは何を現すのか。これについては核P-MODEL名義である平沢進氏の曲「ECHO-233」について解説する氏の言葉にある。

233という数は素数であり、フィボナッチ数である唯一無二の数。つまるところこれは、唯一無二の存在である、あなたのこと。

唯一無二の私。1人であることは孤独であるかもしれない。しかし、捉えようによっては違ってくると、わたしは思う。

あらゆる共同体から解放された唯一無二の私、この私に向き合い、あらゆる外的要因、内面の要素全てを健全に回し続けて行く。自己に向き合うことで、全ての責任を包括しながら、健全な解を得られるよう回し続けていく事、これをそれぞれできるようになれば、淋しみをも受け入れ、健全な自己を確立し、改めてその自己で他者と関わりあうことができる。

一時的な淋しさを引き受け、唯一無二を受け入れることによってきっと、その淋しみから解放されるのだ、と思うし、思いたい。

今、この時、他者の干渉をうけることなく、他者への想いを一度放棄したからこそ、きっと得られるものがある。まずは自己に向き合い、全てが唯一無二であり、健全な解をもとめ、ものごとを回し続けていくことで、きっと終わりのなかったものがたりの続きが見えるのかも、しれない。




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