正義は無数に存在する
これは孫正義と田中正義とかそういう話ではありません。
孫正義は何人かいた方が経済は盛り上がりそうですがね。
このことを指します。
今日はこれに関する話で議論を進めます。
これを教えてくれた作品たち
今までの記事は自分での気付きであったり考えがスタートにあったのですが、これ(と相手に自分の存在を気付かされる話)については完全に受け売りです。
野球ゲームに説法されていると思うかもしれませんが、パワポケは野球ゲームのガワを被ったギャルゲーなり鬱ゲーなり冒険RPGなりなので気にしないでください。
これを初めて見たときにハッとしたんですよ。
特撮の悪役にも大義があったのかって。
そしていつしかアマプラで見た仮面ライダードライブ。
これは綺麗に「正義に相対する正義」が描かれている作品だと感じました。
市民の生活を守るために戦う主人公。
人間に虐げられた記憶から人を見返すために動く敵組織リーダー。
研究の前には家族すら道具と見なす新たな刺客。
そして、別の正義と相対したときに自分の正義を変容させる瞬間がちらほらあるんですよ。
平成ライダー2期のくくりでもドライブは語られる場面が少ないような感じがあるんですが、僕はかなりの名作だと思っています。
法だけが善悪を裁く
先に書いた黒野博士のセリフの続きにもあるんですが、善悪は法によって規定されるものです。
人としてやっちゃいけないこと=悪は全部法に書いてある。
やるべきこと、心掛けるべきことも書いてある。
それ以外は、善悪の天秤にかけて判断することはできないのです。
(仮面ライダーの話は思いっきり人ケガさせたりしてるのでちょっと話が変わってきますが)
生きていたら目を背けたくなるようなことをしている人間を観測するものです。
でも、その行為をしている人間にもその人なりの正義があって。
その行為が法の範疇に収まるものならば対話によって正義のアウフヘーベンを行うしかないわけであります。
SNSにおいて相手に喧嘩を吹っ掛けたり、はたまたリプライで誹謗中傷したりする行為については、善悪は裁けないという認識が抜けていると僕は考えています。
自分の正義と相手の正義が相容れないなら、お互いに気持ち悪さを感じるのは当たり前です。
それをそうと受け入れて、そのままにしておくことのできない人間が現代には溢れすぎているのではないでしょうか。
別に不愛想に生きろって言っているのではありません。
ありのままの自然に手を入れたがる人間が多すぎるっていう話です。
正義を変容させるのはカッコ悪くない
仮面ライダードライブの話で、自分の正義を変容させる瞬間がちらほらあるという話をしました。
これ、仮面ライダーだからってのもあるんですけどシーンがむちゃくちゃカッコいいんですよ。
それまで敵対していた者たちのために戦うことを決意する瞬間、それは今日までの自分を否定する瞬間でもあります。
その葛藤がありながらも、目の前の現実と自分の気持ちから目を背けない彼らがむちゃくちゃカッコよく映るんです。
正義を変えるというのは、それまでの自分を否定するようなものであり拒絶反応が出るのはごく自然なことです。
自分がカッコいいと思っていたものを捨てるのですから。
それだからこそ、重く苦しいその決断を尊重したいしされるべきです。
もちろん自分が作り上げた正義を貫くことそのものも正義ですし、相手の正義を受け入れることを強要するつもりはさらさらありません。
しかしながら、正義を変容させることができる人間ならば別の正義を認める強さがあって、それは上に書いた「別の正義は認められるべき」を地で行く人間そのものじゃないですか?
あと「自分の正義を貫きながらも、相手の正義を許容する」というのは「自分の正義を変容させる」ことよりも高度で茨の道だと思うんです。
僕は前者のスタンスを貫けるほど強くできた人間ではないから。
だから、自分の正義を変容させる柔軟さで現代社会と向き合おうと思いつつこの記事の締めにします。
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