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相手を理解できないとき、自分の存在を理解する

先日学生室でベイブレード大会がありました。
コソ練して大会に臨みましたが予選の総当たり、決勝トーナメントともにビリに終わりました。
ヘルズサイズくんはしばらく信用しません。
あとレアベイガチャ、金ヘルズサイズ4個に対してコバルトドレイク1個も出ないのなんなんですか??救いをください

さて、今日の記事は相手を理解できない瞬間についてです。


苦手な人間

社会で生活していく以上、誰かしらと関わっている・いたことでしょう。
自分は大学院に入ってから無気力でボケーっとしている時間が圧倒的に多かったですが、それでも地元の友人兼ゲーム友達やバイト先の同僚などと何だかんだ関わっていました。
完全にぼっちだよって方も、何だかんだSNSとかで他人とやり取りしていたりしているのではないでしょうか。

いろいろな人間と関わってみると、「この人なんか無理だな」「ちょっと付き合いにくさがあるな」という印象を持ってしまう人が出てくるというのは皆さんも1回くらいは経験あることと思います。
なんだかんだ長く関わっていくと仲良くなったりする可能性も高いですが。
それでも、やっぱり苦手だーのまま終わることも多々あるわけです。

なぜ「なんか苦手」という感覚が出てくるのか。
自分と相手の性格や育った背景、環境などでどこかに明確な違いがあるからだと僕は思います。
典型的な例だと陰キャと陽キャで俗に分類される内向的性格と外交的性格の違いや、インドア志向とアウトドア志向とか。
(余談ですが、僕は陰と陽の中間を陰陽師とか中性子とかいう言葉で分類しており、そこにカテゴライズされるような人間を目指しています)
両極端とまでは言いませんが、なかなか相容れない部分があるときにこの感覚が顔を出すというのが自分の考えです。

「なんか苦手」が存在の証明

長期の付き合いを経ても「なんか苦手だな」の感覚が抜けないと分かったとき。
その瞬間が自分と相手の存在証明なんだと僕はとある作品に教えられました。
長く相手といても、日本人の合わせる気質をもってしても、それでも譲れなかった部分。
その部分こそが、自分らしさなんだと言えるのではないでしょうか。
それは相手のアイデンティティの証明でもあります。

もちろん、その「らしさ」は自分が望んでいないものかもしれません。
それでも、「なんか苦手」な相手の存在を以て自分の歴史や存在が証明される。
自分1人だけでは絶対になしえないことなんじゃないでしょうか。

この下のセリフ、『ボールルームへようこそ』というアニメの核心的なところなので一応ネタバレ注意ということで。

分かったつもりになることは出来るんだよな、他人ってやつは。

でも、つもりはつもりでしかない。

他人ってのは結局不確定なものだ。そこにひとつの世界があるみたいに。

人類が世界のすべてを解き明かせないように、俺たちは他人を解き明かすことなんてできないんだ。

理解できないものが目の前にあるってのは、恐ろしいと思うか?

目の前にいるのはなんだ。

自分と別の存在がそこにいて、それを理解できないということを知った時、それはとんでもなく愛おしいものじゃないか?

それだけで、自分が自分であって良かったと。

そう思わないか?

仙石要(ボールルームへようこそ)

このアニメは競技ダンス(社交ダンス)を題材としていて、作中で主人公のコーチ的なポジションにある人物が主人公へ電話越しに伝えた言葉です。
理解できない・されなくて当然なんだと、理解する・されるためのアプローチをしろと一貫してこの人物は伝えていたように記憶しています。

ちょっとこのセリフは難しくて、自分もいまだに掴みきれていません。
それでも理解不能という恐怖を直視して、相手から逃げなかったときにはじめて、自分という存在が自分自身に、そして相手に証明されるんだろうなと。
これを実践できる社会人かっこいいだろうなあ。


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