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騎馬遊牧民と専制国家 ー 文明の生態史観を考える(後編)

〇シン・文明の生態史観

文明の生態史観の図を再掲する。

文明の生態史観

西欧と日本を「第一地域」、それ以外のユーラシアを「第二地域」とすることには異論はない。確かにこれら二つの地域の間には、明確な違いが存在するからだ。

第一地域
第一地域の歴史的特色として、お隣の第二地域から高度な文明を輸入したこと、中央ユーラシアの乾燥地帯から遠く離れていること、封建制という政体が成立したことなどが挙げられる。これは前編でも書いた通りだ。

この地域の特色を改めて言うならば「貧しい」という点に尽きるだろう。古くから農耕文明が発達した第二地域とは違って、第一地域の農業は古代から中世近世まで、どうしても後進的にならざるを得なかった。これは中世ヨーロッパの農業生産が同時代のアジアのそれと比べて著しく低かったことからも分かる事実だ。

また、この貧しさの原因には第一地域がシルクロードの「外れ」にあることも関係している。交易は豊かさを作り出すが、西欧と日本はユーラシアの主要交易路から遠く離れた位置にある。そう、遊牧民の居住する中央ユーラシアの乾燥地帯から遠いということは、遊牧民が運んでくる豊かさからも遠いということでもあるのだ。

中世近世の西欧はイスラーム圏に熾烈な戦いを挑み、日本は倭寇となって中国沿岸部を荒らしまわった。このことは、貧しい第一地域の国々が豊かな第二地域の富を常に欲し続けたことを如実に物語っている。

また、第一地域に特有の封建制という政体も、この地域の貧しさに大きく関係している。前近代における先進的な政治体制は専制君主制だったが、西欧と日本はこの体制を成り立たせることができなかった。貧しさゆえに専制国家に成長できず、封建制を採用せざるを得なかったということだ。

自由は豊かさを生み、豊かさは自由を生む。その反対に、不自由は貧しさを生み、貧しさは不自由を生む。第二地域の豊かな国々は「自由な専制」を維持できたが、第一地域の貧しい国々は「不自由な封建制」に甘んじることしかできなかった。これが前近代の西欧と日本の実情であった。

第二地域
第二地域の歴史的特色として、古代より高度な文明が発展したこと、中央ユーラシアの乾燥地帯に近いこと、専制君主制という政体が成立したことなどが挙げられる。これも前編で書いた通りだ。

シン・文明の生態史観では、中央ユーラシアを「破壊力の源」ではなく「発展力の源」と捉えなおす。すると、どうだろうか?

古代、中世、近世を通して中華、インド、イスラーム圏(ロシアは若干違うかもしれない)で発展した高度な文明は、遊牧民によって破壊されることなく継続して続いた。いや、それどころか「文明の仲介者」としての遊牧民の手によって発展しさえした。

古代より続く第二地域の諸文明は、遊牧民を介して互いに結びつき、影響を与え合いながら発展を続けた。農耕民たちは専制君主制という先進的な政体を成立させ、自由な社会を作り上げた。自由は豊かさを生み、その豊かさを遊牧民たちが運んだ。前近代のユーラシアは停滞ではなく着実な進歩を続けていたのだ。

まとめ
まとめると、以下のようになる。

第一地域
・ユーラシアの辺境部に位置する
・古代は遅れた地域であった
・中世と近世も遅れた地域であった
・騎馬遊牧民の暴力の影響を受けず、文明は順調に発展した
・騎馬遊牧民の影響を受けず、交易の恩恵を受けられなかった
後進的な封建制を採用していた
・長らく貧しかった
・近代化に成功した

第二地域
・ユーラシアの中心部に位置する
・古代は進んだ地域であった
・中世と近世も進んだ地域であった
・騎馬遊牧民の暴力の影響を受け、定期的に文明が破壊された
・騎馬遊牧民の影響を受け、交易の恩恵を享受できた
先進的な専制君主制を採用していた
・長らく豊かだった
・近代化に失敗した

ここで一つの疑問が発生する。「なぜそんな貧しく発展の遅れた第一地域が近代化に成功できたのか?」という疑問だ。あるいは「なぜ豊かで発展していた第二地域が近代化に失敗したのか?」という疑問だ。この点について、以下で簡単に書いていきたい。

〇大分岐

ヨーロッパとアジアの文明的発展が分岐した現象を「大分岐」という。これを言い換えるなら「貧しい第一地域が豊かな第二地域を追い越したこと」となる。

大分岐の理由はたくさんあり、ここではとても書ききれないが、最も大きなものとして「新大陸の発見」が挙げられるだろう。

西暦1492年、コロンブスは大西洋の西の果てにて新大陸を発見した。そこから上がる富に目を付けた西欧諸国は、我先にと新大陸の支配に挑み、土地、資源、海路、そして奴隷の獲得を巡る激しい競争を展開させた。こうして西欧諸国は激烈な戦争の中で軍事技術を発展させていき、同時に大西洋航海の中で遠洋航海の技術も発達させていった。

新大陸の発見
→大西洋を航海→航海技術の発展
→富(資源・銀・奴隷)の流入
 →富の獲得競争→戦争の激化→軍事技術の発展
 →資源の流入→長らく貧しかった西欧が豊かに
 →銀の流入→価格革命(インフレ)が起き旧封建勢力が没落

航海技術の発展と軍事技術の発展の両者が結びつくと「海軍力の強大化」となる。「豊かで海軍の強い西欧」が形成されたのだ。ここから西欧諸国はインド洋と太平洋に進出し、ユーラシアを徐々に侵食、近代的な列強の時代、帝国主義の時代へと至る。

近代史以降も含めた文明の生態史観をまとめると、以下のようになる。

第一地域(大西洋、海の文明
・大西洋、南北アメリカ大陸を有する大地域
・古代、中世、近世は遅れた地域であった
・騎馬遊牧民の影響を受けず、ユーラシア交易の恩恵を受けられなかった
・近代以前は後進的な封建制を採用(専制国家化に失敗)
・近代以降は先進的な民主制を採用
・長らく貧しかったが、近代以降は富強になった

第二地域(ユーラシア、陸の文明
・ユーラシアの中心部に位置する大地域
・古代、中世、近世は進んだ地域であった
・騎馬遊牧民の影響を受け、ユーラシア交易の恩恵を享受できた
・近代以前は先進的な専制君主制を採用
・近代以降は後進的な独裁制を採用(民主国家化に失敗)
・長らく豊かだったが、近代以降は貧弱になった

封建制を採用していた第一地域の国々がうまく民主化できた一方で、専制君主制を採用していた第二地域の国々が民主化に失敗し独裁国家になってしまった原因としては、こちらの記事を参照されたい。

〇余談

余談だが、かつての専制国家が豊かであったことを示す証拠が「その地の住民の暖かさ」である。「日本は豊かだが社会がギスギスしていて心に余裕がない。アジアの国々は貧しいが社会にゆとりがあって住民の心も豊かだ」といった言説をどこかで聞いた覚えはないだろうか。この捻じれ現象は、前近代においてアジアの国々の方が豊かで、日本の方がずっと貧しかったことの名残りだと考えれば、納得がいくはずだ。

また、西欧人が狂気的なまでに自由を大切にすることに、心のどこかで違和感を覚えたことはないだろうか。アジア人には見られない感性だ。このことから「自由を重んじる欧米人は進んでいる。自由に対して無関心なアジア人は遅れている」といった言説に至ることが多いが、これも西欧人が長らく不自由で非寛容な封建体制下に置かれ続けたことの反発なのだと考えれば、納得ができる。一方のアジア人はずっと自由で寛容な専制体制下にあり続けたので、そもそも自由に対してどうこう思うといった社会風土が形成されなかっただけの話なのだ。

参考:
梅棹忠夫「文明の生態史観

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