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至高の民主主義のカタチとは?(前編)

〇はじめに

現代の世界各国では、その多くが国家体制として「民主主義」を採用している。民主主義とは「人民の人民による人民のための政治」であり、この理念はあるべき規範として世界中で共有されていると言える。

しかしながら、実際は「権威主義」と(特に西側先進国から)批判される国が、世界にはたくさんある。その代表例が中華人民共和国だ。一党独裁制の強権国家と報道されることの多い中国だが、実は意外にも国内外に対して民主主義を標榜している。

どういうことだろうか?

実は西欧と日本の民主主義は「議会制民主主義」と呼ばれるもので、中国のそれは「党主導民主主義」とされるものだ。同じ民主主義であっても、その制度が大きく違うのだ。

多様な民主主義のカタチとその成り立ちについて、歴史を絡めながら書いていきたい。

〇封建制

西欧と日本では、前近代をまとめて「封建制」「封建社会」と呼び表すことが多い。このことから派生して、西欧と日本以外の世界各国でも近代以前をまとめて封建社会と呼ぶ風潮がある。

しかしながら、本来の封建制とは政治体制・社会制度の一種に過ぎず、しかもそれは西欧と日本に特有の、かなり特殊なものであった。そして西欧と日本は、この封建制を基盤にして近代的な議会制民主主義を発達させたという事情がある。よって、議会制民主主義を理解するためには、封建制とはどういったものかを知っておくことが必要になる。

代表的な中世期の封建制を図示すると、以下のようになる。

封建制イメージ図

君主が領主に土地の支配権を与え、領主はその土地内の人民を支配する。封建制を簡単に言うならばこういうことだが、ここではもう少し詳しく見ていきたい。

封建制の下では、身分制度が絶対だ。最下層の人民はどう頑張っても領主にはなれず、領主も君主にはなれない。君主の子は次の君主になり、領主の子は次の領主に、人民の子は次の人民になる。このように、各人の身分は固定され、世襲されるのが原則だ。つまり、社会階層の移動の自由が厳しく制限される。垂直方向への移動の自由が無いのだ。

また、人民は土地に縛り付けられ、自由な移動を行うことが難しい。今の領主が嫌だからといって、別の場所に家族総出で引っ越すことはできない。同時に、生業の移動も難しい。農民の子は農民に、職人の子は職人に、商人の子は商人になるのが原則だ。つまり封建制下では、物理的な場所の移動の自由が厳しく制限され、かつ職業選択の自由にも制約がかかる。水平方向への移動の自由もまた存在しないのだ。

このような垂直方向と水平方向への移動の自由がともに厳しく制限される状態のことを「社会的流動性が低い」という。

そして、君主が領主に土地の支配権を与えるとは言うが、この場合の君臣関係は絶対的なものではない。封建領主は、中央政府が任命・派遣して統治を命ずるという形式をとる「官僚」とは違うからだ。それゆえに、君主が領主に対して振るえる権力は微弱にならざるを得なかった。封建制下の君主は、決して中央集権的な専制君主にはなり得なかったのだ。

一方で、領主の人民への支配権は非常に強力だった。何せ人民は移動の自由や職業選択の自由を持たないのだから、統治を行う上では都合がいい。領主は得てして軍人貴族であるので、その武力を背景にして人民を強烈に縛りつけた。

以上のことを踏まえて、改めて封建制を図示すると、以下のようになる。

封建制

※上図内で実線は支配関係が強固であること、点線は支配関係が微弱であることを表現している。

〇議会制民主主義

では、西欧と日本は、こうした状態からどのようにして近代に至り、現代的な議会制民主主義へ到達したのだろうか。

西欧の歴史の流れを追っていこう。

西欧社会では長い中世の中で、領主の支配の及ばない「自由都市」が次々と生まれた。中世から近世へ至る過程で、自由都市は徐々に発展していき、新大陸やアジアから流れ込んだ富も相まって、都市の市民たちは富裕になる。こうして一部の市民は、既存の身分に依らない「資本家」や「紳士」「有産階級(ブルジョワジー)」と呼ばれる新興階級になっていった。

これを図示すると、以下のようになる。

新興階級の登場

※中世的な領主は貴族化する。

次第にこれら新興階級の人々は政治参加の権利を求め始めた。「政治参加の権利」と書くと大層立派そうに見えるが、要するに権力を欲し出したのだ。富裕になった彼らは、今や君主や貴族に肩を並べるほどの影響力を持つ存在になっていたからだ。

では、彼らはその政治参加の方法として、どのようなやり方を取ったのだろうか。その形式こそが「議会制」である。

数多いる有産階級は互いに平等で同格という意識があった。元は身分が同じだからだ。一か所に集まり肩を並べ、合議によって物事を決定する、これが彼らなりの政治参加の方式としての最適解であった。

さて、ここで一つ大きな問題が発生する。君主と議会という二つの権力機関が、一国内で併存することになったのだ。権力闘争の勃発は不可避だった。

闘争に決着がつかず、ほどほどのところで妥協した結果生まれたのが「立憲君主制」である。これは名誉革命後のイギリスが代表例である。この政体を以下に図示する。

立憲君主制

立憲君主制下では、君主の権力は憲法によって制限され、議会が実権を持つことが多い。「権威を担う君主と権力を担う議会」の分業体制と言えるだろう。また、かつての支配者階級である貴族であっても、議会に参加してその権力の一翼を担うことができた。

一方、立憲君主制とは違って、君主と議会の権力闘争において議会が完全勝利した結果生まれたのが「共和制」である。これはフランス革命後のフランスが代表例である。以下に図示する。

共和制

共和制下では、君主は革命で処刑・追放・退位のいずれかの末路を辿り、退場する。それに合わせて貴族もいなくなる。資本家、紳士、有産階級といった近世近代的な新興階級が、完全に国権を掌握したのだ。

上二つの図(立憲君主制と共和制の図)と封建制の図を見比べれば、西欧社会の流動性が著しく上がっていることが分かるだろう。最下層の人民であっても、機会を捉えれば資本家や有産階級になることができ、資本家や有産階級になれば、議会に参加する機会を得られる。つまり、近代化によって社会階層の移動の自由が解禁され、垂直方向への移動の自由が実現したのだ。また、憲法によって人民の移動の自由や職業選択の自由が「基本的人権」として保障されるようになり、水平方向への移動の自由も実現した。

このようにして、西欧社会は封建制から立憲君主制や共和制へ進化したのだった。

さて、議会が開設され、身分に依らない市民たちでも政治参加の機会を得られたわけだが、たくさんいる有産階級の全員を議会に参加させるというわけにはいかない。そこで、誰を議会に送るべきか、それを有産階級の人々自身で決めるための仕組みが必要になった。ここで生まれたのが「選挙制度」である。

当初、選挙権を持つのは一定以上の資産を持つ男性のみに限られていた。そこから近代社会が進展する中で、人民全員が等しく豊かになっていき、選挙権の拡大が進んだ。こうして権力は最下層まで広がり、人民が国権の主体であるという民主主義の考え方が発展したのだった。

以上が、議会制民主主義が成立した大まかな経緯である。

西欧の影響を受けて、日本でも同じような立憲君主制・議会制民主主義の仕組みが発達した。日本が近代化の波にうまく乗ることができたのは、アジアの他の国々と違って、西欧と非常によく似た政治体制・社会制度である封建制を、江戸時代に採用していたことが大きいだろう。

参考:
世界史の窓「封建社会
世界史の窓「市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー
丸橋充拓「江南の発展 南宋まで

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