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なぜ日本人は宗教なしで道徳を守れるのか?

〇はじめに

「なぜ日本人は宗教なしで道徳を守れるのか?」

こうした疑問文を一度は見かけたことはないだろうか。外国人、特に一神教徒の人たちから出る率直な疑問である。

さて、皆さんならこの問いに対してどう答えるだろう?

「道徳を守れるのは、人間に備わった自然な親切心や真心があるから」
「日本人同士の相互監視のせい。同調圧力が強いから」
「日本人は子供の頃からしっかりとしつけられるから」

どれも妥当な回答だ。

と同時に、日本人なら次のような反応もするのではないだろうか。

「宗教などなくても道徳は守れる。当たり前の話じゃないか?」
「外国人は宗教がないと道徳を守れないの? それってどういうこと?」
「そもそも宗教と道徳って別物では? 外国人は変な思考をするねえ」

さて、これはどういうことだろう? 日本人と外国人(特に一神教徒)との間には「道徳」と「宗教」に関する認識の、何か重大なズレが発生しているようだ。多神教徒の日本人は道徳と宗教が別物だと考えている。一方で、一神教徒の外国人は道徳と宗教は一体だと考えている。

この記事内では「なぜ日本人は宗教なしで道徳を守れるのか?」についてではなく、「なぜ一神教徒の外国人は『なぜ日本人は宗教なしで道徳を守れるのか?』という疑問を抱くのか?」について、多神教と一神教の違いを交えながら書いていきたい。

〇多神教と一神教の違いとは?

「多神教とは何だろう?」
「それは神様がたくさんいる宗教だよ」
「一神教とは何だろう?」
「それは神様がただ一つの宗教だよ」

この問答は間違いではないものの、正確ではない。では、多神教と一神教の違いが単なる神様の複数単数の差ではないというのならば、それは一体何なのだろうか?

多神教
まずは多神教について考えていきたい。以下の図は多神論的な宗教観を示したものである。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の広まる前のオリエント世界と地中海世界、または現代に至るまでのインド世界と東アジア世界の価値観がこれに当たると考えてもらいたい。現代の日本もこれに該当する。

多神教

※上図内の三種の線(点線、細い実線、太い実線)は「思想に対する意識」「道徳に対する意識」「法に対する意識」「神々に対する意識」の強弱を表現している。点線が最も弱く、細い実線が普通で、太い実線が最も強い。

多神教的な価値観の中では「思想」「道徳」「法」「神々」は別個に分かれている。これらに対する三人(人A、人B、人C)の意識を見てみよう。

人A:
思想への探求心が強い。好奇心が旺盛で学問が好きなのだろう。しかし遵法精神と信仰心はどうやら薄いらしい。道徳も大して重視していないようだ。

人B:
道徳と法への意識が高い。正義感が強い人のようだ。信仰心は高くも低くもなく、思想への好奇心は持っていないらしい。

人C:
神々への信仰心が高い。信心深い人なのだ。しかし一方で道徳への意識は低い。あまり倫理的に良い人とは言えなさそうだ。

この三人の例のように、多神教的な価値観の中だと、人々の「思想に対する意識」「道徳に対する意識」「法に対する意識」「神々に対する意識」の強弱には、それぞれ相関関係が発生しない。よって、信心深い一方で道徳は軽視する人もいれば、神など信じない一方で道徳はしっかりと守るなんて人も存在しうるのだ。

一神教
次は一神教について考えよう。以下の図は一神論的な宗教観を示したものである。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の広まった後の中東やヨーロッパの価値観がこれに当たる。

一神教

※上図では教義内に「法」を含めたが、厳密に言うとこれはイスラム教(シャリーア)のみである。

一神教的な価値観の中では「思想」「道徳」「法」は宗教の教義の内部に包含されている。このことに対する三人(人D、人E、人F)の意識を見てみよう。

人D:
信心深い。敬虔だとも言える。よって宗教的な思想への探求心も強く、道徳を守ろうとする意識も強く、遵法精神も高い。きっと周囲の人から尊敬を集めていることだろう。

人E:
信仰心は普通だ。よって宗教的な思想への探求心も普通、道徳を守ろうとする意識も普通、遵法精神も普通だ。良くも悪くも普通の人だ。

人F:
信仰心が薄い。よって宗教的な思想への探求心もなく、道徳を守ろうとする意識もなく、遵法精神も持っていない。周囲の人には軽蔑され、ともすれば背教者との誹りを受けるかもしれない。

この三人の例のように、一神教的な価値観の中だと、人々の「思想に対する意識」「道徳に対する意識」「法に対する意識」の強弱は、明確に「神への信仰心」の強弱に比例する。よって、信心深い一方で道徳は軽視する人なんて人は存在せず、神など信じない一方で道徳はしっかり守るなんて人も存在しえないのだ。

まとめ
多神教と一神教の違いは、単に神様が複数か単数かだけではない。その宗教が包含する概念の規模がまったく違うのだ。多神教という宗教は単なる「人知を超えた凄い神々がいるなあ」だけで終わるが、一神教という宗教は絶対的な唯一神が人々に絶対的な命令を下す。その命令の中には多神教徒が宗教とは別個だと考えるような「思想」「道徳」「法」などの細かな教義も含まれている。そのため、一神教徒が熱心に神を信じれば信じるほど、同時にその宗教の教義も守られることになり、同時に「道徳」も守られることになるのだ。

概して、多神教は雑多で複雑でカオス、一神教はシンプルで合理的ですっきりしているという印象を受ける。ヨーロッパや中東が多神教から一神教に替わっていく過程は「雑多な価値観の混在する社会」から「宗教を基盤としたシンプルな社会」へ変化していく過程であったと言えるだろう。

〇一神教から見た多神教

では改めて「なぜ一神教徒の外国人は『なぜ日本人は宗教なしで道徳を守れるのか?』という疑問を抱くのか?」という問いに答えてみよう。

回答としては「一神教では宗教を信仰することが道徳を守ることに直結するからだ」となるだろう。一神教では「信仰心が強い=道徳的」で「信仰心が弱い=不道徳的」なのだ。

ここで「一神教徒の外国人に『自分は無神論者だ』『自分は無宗教だ』と言うとドン引きされる」の謎も解けたのではないだろうか。そう、「自分は無神論者だ」と告白することは、一神教徒からすれば「自分は道徳など守る気はさらさらない」と告白することと同義なのだ。

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