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男尊女卑はどこから来たのか? ー ジェンダー論への考察(後編)

〇男尊女卑の社会と女尊男卑の社会

さて、人間集団が男と女という二つの性に分かれ、両性によって社会が運営される以上は、完全な男女平等というのは存在し得ない。もちろん、男女平等に限りなく近づけることはできるが、100%の精度でそれを実現・維持することは不可能だ。どうしても、男か女のどちらか一方の性だけをわずかに「尊」とし、もう一方の性をわずかに「卑」としてしまう。

つまり、ジェンダーという観点から見た社会の在り方としては、次のような四種類に区分できる。

1.男(をとても)尊、女(をとても)卑
2.男(をやや)尊、女(をやや)卑
3.女(をやや)尊、男(をやや)卑
4.女(をとても)尊、男(をとても)卑

人類史上のすべての人間集団は、上記四つの社会形態のうちのどれか一つのタイプであった。そのうち、たいていの社会で「男尊女卑」が主流になっていったということは、上の四つの社会形態のうちで1と2を選んだ社会が繁栄し、3と4を選んだ社会が衰退していったということを意味する。そうなった原因は何だろう。

これを考える際に鍵となるのが「男尊女卑はどこから来たのか?ージェンダー論への考察(前編)」でも述べたような、男女それぞれの優位性、特に男が持つ優位性である。それは「暴力」であった。男は暴力とそれに伴う殺戮能力において、女を圧倒的に凌駕していた。

ここから単純に考えるならば「男は自身が持つ暴力という優位性によって女を征服して、社会的な地位を手にした」となる。また、こうとも言えるだろう。「女尊男卑の社会では、男は女に対する不満をため込んで、ついには自らに備わる殺戮衝動を爆発させる」と。

男尊女卑社会においては、たとえ女が男に対する不満を抱いたとしても、彼女らは社会を崩壊に追いやるようなことはしない。しかし反対に女尊男卑社会においては、男が女に対する不満を抱けば、彼らは自身の殺戮能力を爆発させる。暴力を用いて無差別殺人を起こし、徒党を組んで社会を内側から破滅させるような大騒乱を起こすのだ。

そう、人類史上の女尊男卑の社会はその全てが、男たちが抱えた不満とそれによって生じた殺戮劇によって幕を閉じてきた。だから3と4の社会は残らなかった。そのどれもが男たちの暴力によって内部崩壊を起こし、淘汰されたからだ。

そのことを鑑みると、次のような男尊女卑の因果関係の図式は崩れる。

「男は女よりも優れている」
「だから、男は尊くて、女は卑しい」

ではなくて、実際はこうだ。

「男は不満をため込むと暴力を爆発させる」
「だから、男に不満をため込ませてはいけない」
「だから、男を『優れている』ということにして、尊ぶことにしよう」

つまり、男尊女卑とは「男は女よりも優れている」から起こった思想ではない。「男を尊ぶこと」が先にあって、後付けで「男は女よりも優れている」ことにしたというところではないだろうか。男の暴力性を上手く制御するために社会が妥協した結果として、世界各地で男尊女卑の慣習が根付いていったとするのが、私個人の説である。

〇戦争と出産

さて、そんな危険極まりない殺戮兵器たる男たちであるが、通常は彼らは自らに備わる暴力性を爆発させたりはしない。彼らがそれを発揮するのは、主に戦場においてである。

女には子を産むという能力があり、男には人を殺すという能力がある。従来の社会はこれら両性の能力を最大限活用しようとした。つまり、女は子を産まなくてはならない、男は戦場で人を殺さなくてはならない(あるいは人に殺されなければならない)というようなことを「常識」とし、男女両方に強制してきたのだ。

女は出産という痛みを負う。それは社会の維持にとって必要な痛みだ。また同じく男は戦場で敵に傷つけられる、または殺されるという痛みを負う。これも社会の維持にとって必要な痛みである。

ある意味で、この「両性ともに痛みを負う」という点で、かつての社会は究極的に「男女平等」であった。それが崩れたのは、第二次世界大戦後、世界規模での戦争が消えて、一応の「平和」が到来してからである。

特に先進国では戦争の機会はほとんど無くなった。今や男のうちでも戦場に出ない者の方が圧倒的に多いだろう。これはかつては考えられないことであった。人類はその歴史上、常に戦禍に苦しみ続けてきたからだ。

それに伴って男の負うべき痛みは減った。戦争がなくなれば当然、戦場で人を殺すという痛みも人に殺されるという痛みもなくなる。すると、男女間で負う痛みの平等性(均衡状態)が崩れた。男は戦場での痛みを負わない。一方で女は出産での痛みを負う。これは不平等ではないか!

こうして女は出産という痛みを負う行為を自ら放棄し始めた。これが先進国で進行中の「少子化」という現象の、隠れた背景ではないだろうか。

〇虐げられてきた男たちへ

さて、ここからはこの記事を書いた私個人のジェンダー論への思いを書いていきたい。

「長らく女性は虐げられてきた」
「人類史上のほとんどの期間、女性には自由がなかった」

これらの文言はフェミニズム闘争の文脈でよく語られることである。その通りだろう。だが虐げられてきたのは何も女性だけではない。男性も同じく虐げられてきた。それは戦争という形でだった。

確かに男は暴力的だが、彼らだって何も好き好んで暴力的に生まれてきたわけではない。しかし、男は男であるという理由だけで、戦争が起きれば徴兵されて、殺人というやりたくもないことをやらされ、斬られ、撃たれ、焼かれ、地獄のような激痛の果てに死んでいくことを強制された。本当はそんなことは誰もやりたくなかったはずだ。しかし「男に生まれた」という理由だけで、名もなき彼らは犠牲になり続けてきたのだ。

そのことは今でも変わらない。21世紀の、それなりに平和になった現代でさえ、戦場に出て戦うのは女ではなく男の方である。彼らが虐げられていると言わずして何と言おうか。彼らに自由がないと言わずして何と言おうか!

フェミニズムは批判されることも多い。その理由はフェミニストが「男の痛み」を無視するからだ。しかし、もしフェミニストがそんな「男の悲しさ」や「男の苦しさ」に対してほんの少しでも目を向けて、互いに歩み寄れたならば、きっと真の男女平等がその先にはあるだろう。

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