処女降誕をクリスチャンは本気で信じてる?【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #3】テキスト版
「でもクリ×聖書」の第3回です。
「これでもクリスチャン」略して「でもクリ」の布忠が、「聖書にこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでる」ということを書いています。
今回は、マタイによる福音書の1章18節です。
動画版もあります↓
マリア様の処女懐胎
今回は、処女懐胎とか、処女降誕と言われる、マリア様が男を知らないまま妊娠した、それがキリストと呼ばれるイエスだ、というエピソードです。
ちなみに「懐胎」というのは「おめでた」ということですね。マリア様から見ると処女懐胎、イエスから見ると処女降誕ということになります。
(布忠はプロテスタントですが、この企画では「聖書になじみがない人」がなじんでそうな「マリア様」という呼び方をしています)
キリストはそういう生まれ方をしたらしいということは聞いたことあるかもしれませんが、実際に聖書はどう伝えているかというとですね。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることがわかった。
たったこれだけなんです。ルカによる福音書ではもっと詳しく取材されているのだけど。
でも、これだけとはいえ、いろいろ説明が必要ですね。
三位一体の神という非合理
まず『聖霊』というのは、『精霊』ではありません。聖なる霊、ホーリースピリットのこと。
で。
聖書の中で、イエスが神を父と呼んで対話している場面があります。
ところが聖書は、イエスはキリストだし、キリストは神だということも伝えている。
しかも聖霊というのが、イエスとまったく同格の存在だということも聖書に書かれている。
そうすると聖書は「父という神」と「イエス・キリストという神」と「聖霊という神」の、三柱の神がいると言ってるのかというと、イエス自身が「神は唯一」と言っている。
(日本語で神様を数える助数詞は「一柱-ひとはしら-」「二柱-ふたはしら-」です。クリスチャンでも「神様はただ一人」なんて言ってしまう人がいるけど、「一人」というのは人間を数える単位だから、これだと神が神であることを否定しちゃうんですね)
で、「神は唯一だ」ということと、「父という神」「キリストという神」「聖霊という神」がいるということが、矛盾していない、1+1+1=1だ、ということを表すのが「三位一体」というキリスト教用語です。
神は唯一なので1+1+1=3ではない。
父もキリストも聖霊も独立したパーソナリティを持つ完全な存在だから、1/3+1/3+1/3=1でもない。
三位一体についてはいつかガッツリ紹介したいのだけど、とりあえずキリスト教では自分たちの神をそういうふうに理解していると思っておいてください。
で、話を戻すと、聖書は、マリア様が聖霊によって身ごもったというんです。
聖霊によってみごもる
これは、ギリシャ神話でゼウス神が人間のおとめと交わって、半神半人の子を生ませた、といった物語とはまったく違います。
聖霊は肉体を持たない、見ることも触ることもできない神だから、人間の女性と交わって子を生ませるということはないんです。
それをはっきり伝えるために、マタイは「神によって」じゃなくて「聖霊によってみごもった」と書いたのかもしれません。
ローマ帝国は文化的にはギリシャのヘレニズム文化を継承していて、ギリシャ神話も知らていたので、それとは違うんだと強調しているのかなと。
まあ、科学的常識ということで考えると、ありえないことですよね。
「クリスチャンは処女降誕なんて本気で信じてるの?」と聞かれることもあるのですが。。。
ぶっちゃけクリスチャンの全員がこれを信じてるわけではないです。
「処女降誕は事実ではない」と明言する牧師もいるし、「マリアはローマ兵にレイプされて妊娠したんだ」などと本気で考えてるクリスチャンもいるくらいです。
ただこの企画では、ぼくという一人のクリスチャンの聖書の読み方を語ってるのですが、ぼくが思うに、イエスは父ヨセフと血のつながりがないだけでなく、母マリアともつながってないと思うんですね。
処女降誕を信じないクリスチャンは「誰がマリアの卵子を受精させたのか」ということを説明しようとするみたいだけど、聖霊によってみごもったというのは、マリアの卵子も使われてないのだろうと。
創世記のはじめ、神が「光あれ」と命じただけで光りが生まれたように、材料なしでマリアはみごもったのだと思う。マリアの遺伝情報をイエスは受け継いでいない、というのがぼくの読み方です。
キリストは神?
ただ、光が創造されたのと違って、キリストは神に創造されたのではなく、キリストが神自身だというのだけど。
これ実は「キリスト教」と「キリスト教をよそおった新宗教」を見分ける方法の一つなんですよ。
「イエス・キリストは神ですか」とたずねて、「そのとおりです」と答えたら、たぶんそれはキリスト教です。
「キリストは神ではなく、神に創造された存在」と答えたら、それは「キリスト教」ではないです。
それでですね。クリスチャンや牧師でも聖書に書いてある処女降誕を信じないというのはもしかしたら驚いたかもしれませんが。
クリスチャンは処女降誕を信じている?
イエスが処女マリアから生まれたかどうかというのは、キリスト教の中心的なことではないんです。
キリスト教の中心というのは、これもぼくの理解ですが、「イエスがキリスト、メシア、救い主だ」と信じること。
「キリストは神だ」と信じること。
「罪のある私が、キリストであるイエスによって罪をゆるされて、神との関係が回復される」と信じること。
だから、ぼくはイエスの処女降誕をそのまま信じているけれど、でもイエスが処女マリア様から生まれたかというのは、ぼくがイエスを信仰することに1mmも影響しないんです。
もし仮に(といってもこれはありえないことだけど)、「処女降誕は事実ではなかった」ということが否定の余地なく合理的に証明されたとしても、ぼくにとっては「で、だから?」なんです。
イエスを信仰するというのはですね。
「今から約2千年もの昔に、大ローマ帝国の片隅のエルサレムあたりで処刑されたイエスによって、その死のおかげで、ぼくが助かった」
ということを信じるということなんです。
おかしいでしょ、これ。
こんなことを信じるなんて、おかしいんですよ。
ぼくが生まれるよりはるか昔に、はるか遠い国で、犯罪者として処刑された男のおかげで、ぼくが助かったというんですから。
なのにぼくは、こんな荒唐無稽で、非合理的で、非科学的で、非常識な話を、それは事実だと信じられたし、今も信じ続けています。
これ、もう奇跡でしょ。
人が、常識や科学をさしおいて「イエスを信じた」という奇跡にくらべたら、「処女降誕」なんてのは奇跡にしてもちっぽけなもんだし、だからクリスチャンを名乗ってる人がぼくに「実際には神には処女降誕なんていう奇跡をおこすことはできなかった」というならね、「たったそれっぽっちの奇跡もできないような神だ」というなら、ぼくがイエスを信じるなんていう奇跡もおこせるわけないと思ってしまう。
処女降誕が実際のできごとか、ということにはこだわらないのだけど、「処女降誕程度の奇跡も神には不可能」と言われるなら、それは「まして神はお前にイエスを信じさせることは不可能」ということだから、「それはぼくにケンカ売ってるんですよね」てなる。
意見には個人差があります。
このチャンネルは、聖書に何が書いてあって、それをぼくという一人のクリスチャンがどう読んでいるかを語っています。キリスト信者を代表するものではありません。
イエスを信じるし、聖書に書いてある奇跡は信じる、というクリスチャンもいる。
イエスは信じるけれど、奇跡は非科学的だから信じない、というクリスチャンもいる。
奇跡というのは、キリスト信仰があるかどうかを判定する踏み絵ではないんです。
ところで。
マリア様の夫ヨセフにしてみたら、マリア様が処女懐胎したというのは、いったいどういうことになるんだという話ですよね。ネトラレですか、という。それはまた次回読むことにします。
今回はこのあたりで。
「でもクリ×聖書」はあくまで、布忠という一人のキリスト信者が聖書をこう読んでいるというものです。浅いやつが浅いこと語ってる自覚はあるので、キリスト教を代表するものではないし、これが正統的というつもりもないことをご理解ください。
では、また。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?