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子どもの髪の毛

上の子どもが紙用のはさみを手に持って、聞いてきた。「あなたの髪の毛を切ってもいい?」と言う。私は即座に「嫌です」と答えた。パートナーにも同じように聞き、同じように断られていた。すると今度は下の子の髪の毛を切ってもいいかと聞くので、だめだと答えた。子どもはただ好奇心で髪の毛を切ってみたいらしいのだが、それはもちろんだめだ。もちろんだめだというか、それは固く断りたい。その、素直でかわいい好奇心には共感するけれど、髪を切ってもいいかというと、それは賛成できない。絶対にだめだ。髪の毛をはさみで切ってみたいという、純真な動機。ただそれだけで自分の髪の毛の運命を、手先もまだ覚束ない小さな子どもに任せてしまったら、一体どうなってしまうだろうか。何て恐ろしいや。未だに日本国外のヘアサロンでは、髪の毛を切ったことがない私だ。ヨーロッパでヘアサロンに行くことも未だにできない私が、どうやって子どもに自分の髪の毛を任せられたものか。子どもの好奇心は評価するけども、髪の毛を切らせることについてはきっぱりと断らせてもらう。
そしたら次は、下の子どもの髪の毛を切りたいと言う。一歳半になる下の子どもの髪は薄毛ではないものの癖っ毛で、頭の地肌がしっかりと見える程である。シュルツの漫画、ピーナッツの登場人物のライナスに似ていると思う。毛布ではないけれど、下の子はカシミアのカーディガン(半分に裁ったもの。だんだんぼろぼろになってきた)を舐めるのが好きだしね。そんな綿毛のようにかわいい髪の毛を、いい加減に切る訳にはいかない。話題の当事者はまだ話せないので、本人の代わりに私が断らせてもらった。みんなに髪の毛を切ることを断られて、この話はここで終わったと思ったのだが、まだ終わっていなかった。その後、リビングルームに上の子どもの声がしないことに気がついて、あれ、何かおかしいなと思ってリビングから出ると、子どもは玄関口の鏡の前に立って、自分の髪の毛を切っていた。髪の毛に対してはさみを真横に入れて、ざくざくと切っている。私が予想して恐れていた通りの切り方だ。もちろん髪の毛を切ることに対して何の準備もしていない訳で、子どもの切った髪の毛が、床や子どもの着ている服にもたくさん散らばり落ちている。子どもの髪の毛はとても細いし切ったものは短いので、掃除が大変だった。床に落ちた髪の毛はダイソン掃除機で殆ど吸い上げれたものの、子どもの服に纏わりついた微細な髪の毛を取る事には難儀した。コロコロをしても、なかなかうまくいかない。子どもの着ていた服は、髪の毛が付着しやすい化繊のものだったのだ。いい加減で、掃除を終える。子どもの髪の様子も、悲惨なものだった。左半分だけがとても短く切られていて、しかも不揃いの段になっている。これは苦笑いするしかないだろう。痛々しいというか、変なヤンキー風に仕上がってしまっていて、大変辛い。ヘアサロンに予約を入れるのが面倒で先延ばしにしていたことが悔やまれる。しかし、事後はもう変えることはできない。時間を作って、髪を切りに行かせるしかない。当分は、この髪型のままで学校に行くしかない。髪を切った本人は楽しかったのだから、髪型が少しくらい変でも、まあいいだろう。よく育児相談のサイトなどで、「子どものやりたい事は全部させてあげてください。子どもの豊かな好奇心を否定することなく、優しく見守ってあげましょう」みたいな言葉をよく目にするが、もし我が家で子どもの好奇心に合わせて生活をしたとしたら、家の中も精神状態もめちゃくちゃになってしまうだろう。生活が成り立たなくなってしまう。家庭崩壊だ。育児はケースバイケースなのだということを、忘れないでいることが大事だ。

翌日の学校では、子どもは数人のクラスメイトや先生に新しい髪型のことについて聞かれたらしい。自分で切ったんだよと言うと、みんな笑ってくれたらしいので、心からほっとした。この件で子どもの虐待を疑われたらどうしようと、内心では少しだけ心配していたのだった。その後、約二週間後に海辺の隣町に髪を切りに行くことができた。サイドはバリカンで刈り上げなかったけれど、もみあげがはさみできちっと揃えられた。もみあげをこうしてください等、細かく注文することは面倒だからしないので、まあいいやと思う。その形がこの地のデフォルトなのだ。次は早めに髪の毛を切らせようっと。写真は髪型のビフォーアフターである。

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