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レディ・プレイヤー1は日本人への説教である

映画の感想を書くタイミングはとかく難しい。

おすすめの映画であればあるほど、どの作品もなるべくネタバレせずに観て欲しいからだ。ネタバレは程度によらず等しく悪だ。

そんなわけでようやくレディプ・レイヤー1の話を書きたいと思う。さすがにレンタルまで開始してたらいいよね…?

(というわけでここから下はネタバレあるよ!)





それにしてもポスターがアトラクションっぽいな。日本配給のセンスどうなの問題は置いておくとして、VRが舞台×みんな大好きキャラクター大戦争なお祭り映画の側面も見せる。原作「ゲームウォーズ」には本作監督のスピルバーグの名も結構出てくるそうだが、自分が監督やるとさすがにその表現は取り払われている(それでもデロリアンがキーアイテムとして出てくるのはキャラクターの域を超え前提と化した成果だろう)。

ではスピルバーグはレディ・プレイヤー1の中で、自身の今までの作品をどう捉えどのように向き合ったのだろうか?

筑波大学准教授でメディアアーティストの落合陽一さんは「自己言及的な作品」と指摘する。スピルバーグが今まで自身の映画で提示してきたVR的な世界観とそこから派生した作品群も集めて、鑑賞者に『俺たちの作った夢の世界の責任を取れよ、お前らも共犯だろ』と問う。

確かに、本作は非常にスピルバーグ的であり、今までのスピルバーグ作品の上に成り立つメッセージ性を持つ。監督名を伏せて観せられたとしてもスピルバーグと気づくだろう。特にエンディングは100%のスピルバーグだ。


私は鑑賞前にこの指摘を耳にしていた。その上で抱いた感想。
この映画は日本に向けた説教である

つまり落合さんの指摘の中の「お前ら」は日本人を指すと考察した。なぜその考えに至ったかを書いていく。
(この考察の信憑性・論理破綻はご容赦。あくまで勝手な感想である)


まずこの作品で目立つのは、日本発コンテンツの待遇の良さだ。日本のCMにだけ露出を許されたガンダムだけに止まらず、敵ボスが乗るのは機龍(メカゴジラ)であるし、物語の最初の目玉となるレースはデロリアンを食う勢いで金田バイクが強い印象を残す。原作の時点で日本コンテンツは多かったが、スピルバーグ自身も「俺はガンダムで行く」のセリフを日本語に変更している等、日本意識が高いのは明らか。

しかもこのセリフは、VR世界は他言語世界なのに唯一の非英語セリフである(はず)。この「俺はガンダムで行く」にメッセージがないはずがない。

ここで本作中のガンダムのアクションに注目してみよう。
・ビームサーベルを逆手に持つ
・シールドを掲げて端っこで殴る/突撃する
・モビルスーツらしからぬ蹴り方をする

ガンダムっぽくないどころか、ガンダムのアニメ上の実際のアクションと1つも合致していないのではないか?テレビ版をくまなく見ればあるかもしれないが、少なくとも劇場版の動きおよび視聴者がイメージする「ガンダムの動き」とは逸脱している。

スピルバーグやスタッフ達はガンダムを詳しく知らなかったのだろうか?

答えは否だろう。
本作上のガンダムの登場シーンを思い出して欲しい。両腕両脚を広げたキメポーズ。これは知る人ぞ知るZZガンダムのポーズである。

このポーズについて原作・脚本のアーネスト・クライン氏はパンフレットの中で「ZZガンダムのポーズをさせた理由はカッコいいポーズだからだ!」と説明する。ガンダムに取らせるポーズとしてZZをチョイスするのは設定・再現大好きな日本人的発想から離れていて新鮮だ。そしてこのポーズ、知名度はそこまで高くない。ZZガンダム自体、宇宙世紀ファースト〜逆シャアの間のTVシリーズで唯一映画化されておらず、プラモデルやゲームでしかそのビジュアルを見たことが無い人も多いはずだ。したがってメディア環境が異なるとは言え、海外でZZガンダムのポーズを採択する人間がガンダムに詳しくないはずがない。つまり、ZZポーズ以外も含め、ガンダムの印象的なポーズや動きを熟知した上で意図的に「ガンダムらしくない」動きを取らせているのだ。自分たちが思うままに、ガンダムをカッコよく映すために。

※スタッフの各作品への愛とこだわりの尋常なさはメカゴジラにも現れている。「ゴジラ×メカゴジラ」と原作で表現されていた中、本作でのデザインは「ゴジラvsメカゴジラ」のポスターだけに出ていたプロトタイプメカゴジラだったそう。完全にオタクの仕業です。


この一連のガンダムに込められたメッセージ。
ガンダムのような稀代の名キャラクター達を擁しながら世界までメジャー層に叩きつけられなかった日本の業界。本作は日本発コンテンツをふんだんに意識した映画であり、『俺たちの作った夢の世界の責任を取れよ、お前らも共犯だろ』の共犯者とは紛うことなく"日本"なのではないだろうか。

世界中に夢を見せたキャラクター達、コンテンツ達。その扱いは今でも、夢を与えた人たちに対して誠実であっただろうか。ガンダムの有名なセリフ「僕が一番、ガンダムをうまく使えるんだ」を本作のスタッフ達が知っていたか定かではないが、同じ言葉を向けられていると感じるのは私だけだろうか。その夢の責任を、日本も取らなければいけないのではないか。


…などと映画を観た帰り道で考えていた。

上記の妄言は置いとくとして、本作はとても楽しく幸せな映画だった。いろんなキャラクターが出ることはともかく(ウルトラマンが出なかったことは非常に残念)、その扱い方に愛があった。ガンダムはメカゴジラに負けておらず優劣はついていなかったり、K.I.T.T.を搭載したデロリアン等、ただ出すのではなく各キャラクターを文化基盤として置いてしまい、その上にどう魅せるか/どう観せるかを構築している。

この文化基盤を設定した上での世界観構築は本作の一番の見所だろう。中でも最後の1UPのくだりは、「死ぬ→全財産失う」と「全財産を得る→1機UP」というゲーム世界を基盤にして初めて成り立つ対偶として最高に美しい。

一度観て気づかなかったネタをまた探しにいきたい。


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