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【戦国ショートSF】サラリーマンとして働く武田信玄の一日

キッチンの棚に塩はなかった。

塩のないゆでたまごは、どこかぼんやりとした味で、めざましテレビを眺めながら信玄はため息をついた。塩の瓶はずいぶん前から空のままで、会議や合戦続きの毎日に塩のことはいつも後回しになっていた。今日の運勢は10位だった。

サラリーマンになって6年目。

出世や上洛には興味がなかっといえば嘘になるけれど、ようやく課長(甲斐支店)になってからも上昇志向と卑屈の隙間で自分をやりくりしてきた。デスクワーク(主に馬と塩関連の業務)は忙しい日々だけれど、でも単調といえば単調でもあって、そういう仕事に嫌気がさして、謀反だったり上洛だったりに踏み切れる人が羨ましいと信玄は思っていた。

昨日の深夜、取引先の今川さんから、今後は塩の輸送を打ち切らせて欲しいという連絡があった。海のない甲斐では塩取り引きは重要な業務のひとつだ。繁忙期(合戦前後)でも、塩関連の業務は必ず最優先で行うし、終電まで残業して対応することも多い。今川さんは弊社の塩取り引きで大口顧客の一人だ。大変心苦しいのですが、と今川さんのメールには丁寧にお詫びが書かれていた(本心ではないだろう)。群雄割拠のこのご時世、まあ仕方がないのだろうけれど。

外は雨で、傘がない。塩もない。

会社で経理部の上杉さん(女性)を見かけた。オフィスグリコに永楽通宝を入れている。上杉さんとは仕事でのやりとりはそれほどなかったけれど、打ち上げの席で隣になって以来、社内で会うと話をするようになった。家が近所だったこともあり、おすすめのお店や美味しいランチの情報交換をしている。信玄が住んでいるアパート(パレス躑躅ヶ崎館・木造アパート)のことを、すごい名前ですね、と屈託なく笑っていた上杉さんは、ポッキーを片手に廊下の向こうに消えていった。

塩止めの知らせを聞いた、部下の飯富君がデスクに詰め寄るようにやってくる。どうしてそんなことがまかり通るのか、打って出るしかないのではないか、と飯富君はまくしたてる。真っ赤なネクタイが眩しい。先方にも事情があるのだから、となだめながら、対応は検討すると飯富君を帰す。対応なんてあるのかわからないけれど。課長になってから、合戦よりも部下の出世の相談を聞いたり、メンバーの相性を考慮した陣を敷いたりするような業務が増えた。ただ馬にまたがって甲斐の草原を駆けていた、元服前のあの頃が懐かしい。

取り急ぎ、というだけの塩対応を終え帰路につく。いつもより鎧兜の重さを感じながら、馬上で空を見上げると夕日が雲を照らし、オレンジ色の天蓋のようでとても綺麗だった。諏訪湖のほとりでゆっくり寝ていたい、と信玄は思った(3年くらい)。

重い足取りでパレス躑躅ヶ崎館の階段にたどり着いた信玄は、きょうも塩を買い忘れたことを思い出す。仕事もプライベートもしょっぱいなと、ひとり力なく笑う。階段を登り終えると自分の部屋のドアに、白いビニール袋がかかっていることに気づいた。

袋の中には塩が入っていた。

袋を持って部屋に入り、リビングのテーブルに塩とスマートフォンを置くと、LINEのメッセージに気づいた。上杉さん・未読2。

大変ですね。塩、使ってください。

上杉さんの一言には、毘沙門天のコミカルなスタンプが添えられていた。嗚呼、これは好きになっちゃうやつだ、と信玄は思う。しばしの考慮ののち、信玄は上杉さんにこのようなLINEを送ったのであった。

駆けつけること風の如く
見守ること林の如く
恋に落ちること火の如く
君の傍にいること山の如く

(めっちゃ既読スルーされた)


おわり。

おまけ豆知識①「武田信玄」
戦国時代の甲斐の武将。風林火山の旗や騎馬隊で有名だよ。越後の上杉謙信とはライバルで、有名な川中島の戦いでは5回くらい戦っているんだよ、多いね!
おまけ豆知識②「飯富虎昌」
武田家の重臣。「甲山の猛虎」と呼ばれるほどの猛将で、虎昌の率いる部隊は、全員が赤い装備を備えており「赤備え」と呼ばれていたんだよ。派手だね!
おまけ豆知識③「躑躅ヶ崎館」
読み方は「つつじがさきやかた」だよ。戦国時代の甲斐武田氏の居館として知られているよ。館にはなんと水洗トイレもあって、香炉も焚かれていたそう!おしゃれだね!

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