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page10 私の仕事ではない

彼の名前はマツザキといった。どういう漢字を書くのかは知らない。下の名前も知らない。周りが彼をマツザキと呼ぶので、私も倣ってマツザキと呼んでいる。本名かどうかも知らない。私自身は周りから本名で呼ばれているから、きっとこの職場では当たり前に本名で呼び合うのだろうと推測できるが、実際のところはわからない。なぜなら私は自分以外の履歴書を見たことがないし、見る立場にもないからだ(それは私の仕事ではない)。
職場にきた当初、マツザキがニックネームかもしれないと思うことはあった。彼の肌は一年中よく日焼けしていて黒く、歯がとても白かった。そして少しハスキーな声で喋った。それらの要素は同姓の歌手を連想させた。しかし私は彼に直接確かめることも、周りに尋ねることもしなかった。ここでの名前は、相手が応答するための記号でしかない。
マツザキは「決済者」と呼ばれる職務に就いていた。この職場には5人の決済者がいて、マツザキと同様に、それぞれ苗字らしき名前で呼ばれていた。本名かどうかは知らない。さらにいえば、正しい呼び名であるかさえ知る必要がなかった。なぜなら私は、マツザキ以外と仕事をする機会がない。私はマツザキ専用の「窓口」なのだ。

あと23秒で、きょうもマツザキはカードを取りにやってくる。朝の10時。マツザキはいつも時間きっかりにやってくる。一分どころか一秒も遅れず、10時になるとやってくる。最初はそのことに気付かなかった。しかしある日、職場で掛かっているラジオから流れる時報と、マツザキがカードを取りにくるタイミングがまったく同じであることを発見した。私は隣の席でカードの記入作業をしている同僚に、このささやかな発見を伝えた。ところが同僚は、そんなはずはない、彼は時計じゃないんだからと笑うのみだった。私はその日から毎日、観察した。やはりマツザキは10時きっかりにやってきていた。
「きょうは何枚?」マツザキが私に尋ねた。私は前日までに整理しておいたカードをファイルから取り出し、マツザキに見せる(それが私の仕事だ)。カードはトランプほどの大きさで、対象者の詳細な情報が小さな字でびっしりと書き込まれている。「調査官」と呼ばれる者たちが対象者を徹底的に調べ、「書記官」へ電話で報告する。調査は大抵の場合、二週間ほどで終わる。書記官は報告をつぶさに漏れなく記録していくが、トランプほどの大きさのカードに、すべての情報を記載することはできない。そこで、月に一度「大審議会」が開かれ、必要な情報と不要な情報に選別される。カードには大審議会で必要と判断された情報のみが載っている。
「5枚です、マツザキ」そう言って私は一枚ずつ、マツザキにカードを見せた。5枚目のカードを見せたとき、マツザキの表情が一瞬変わった。まただ、と私は思った。またこの表情だ。右目を少しつぶり、苦い薬でも飲んだみたいに顔を歪め、右の口角がわずかに震えた。「直帰ですか、マツザキ」と私は彼に言った。マツザキは黙って頷くと、5枚目のカードだけを取って部屋を出て行った。
過去にも何度か、マツザキは直帰をした。通常であれば仕事を終えた決済者たちは、職場に戻って報告書をまとめなければならなかった。彼らは一様に暗い目をして、爪の間まで赤黒く汚れた手で報告書を書いた。それはときに数十ページにわたることもあった。だから決済者たちは、仕事を終えても必ず職場に戻り、報告書を書いた。そうしなければ、翌日の仕事に影響するのだった。マツザキも普段は仕事を終えると職場に戻り、新月の夜みたいな目をして報告書を書いた。ところがきょうみたいに、ときどき彼は報告書を先延ばしにして、そのまま家に(おそらく家に、ということだが)帰ることがあった。私がカードを見せたときに覗いた、あの一瞬の表情。それが直帰の合図だった。

私がこの職場にきて8年の歳月が過ぎた。しかし、決済者と呼ばれる彼らが、いったい何を「決済」しているのか、私は知らない。知る必要もない。それは私の仕事ではない。

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