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「自分に負けたんだね」

 退職の内示もあり他課の職員からも声をかけられるようになった。皆さん「何でやめちゃうの?」、「もったいないよ」なんて声をかけてくれる。その中でも「自分に負けたんだね」と言ってきた年上の職員がいる。皆さん同様、「もったいないよ」となんて話をしてくれていたのに「自分に負けたんだね」とのこと。言われたときは意味が分からず返事もできなかったが今なぜそのようなことを言われたのか考えてみることにした。

「自分に負ける」とは相手がいて負ける、勝つといった競争になるが、私は何に競争していたのでしょうか。相手を負かせる為に仕事をしてきたわけではない。
もしくは怠ける、弱いもう一人の自分との勝ち負け。では怠けることはいけないことなのか。弱い自分でいけないことなのか。勝って、負けてのルールの中で仕事をしてきたのか。では勝つとは何か、負けるとは何か。
仕事での勝ちは「昇進すること」、「みんなから信頼されること」。
負けるとは「昇進せず窓際族になること」、「仕事を任されないこと」が挙げられる。
では私の場合は勝ちの場合は昇進はできなかったので負けになるが皆から信頼されることについては勝ちある。仕事も任されていたと思うので勝ちある。
もう一人の自分「怠け者」に対しても怠けて仕事はしてないしずる休みなんてしたこともない。職場に入れば最善を尽くしてきた。

でもどこかでバカにされないように、一番になれるように、社会人なんだから、親を見返すという鎧を装着して仕事をしてきた。それが強くなること、成長することであると思っていた。その鎧はどんどん膨張して行き場を失くしてもさらに膨張を繰り返す。そしてさらに次の鎧を求めていったのである。その一方で鎧で固めれた私は本当の自分をさらに見ないようにと鎧で埋めていったのである。

そんな私が鎧を外したのである。いままでの想念を手放したのである。であるならば自分に負けたのかもしれない。
ただこの鎧を外す、必要なないものと分かった私は次のことに進めるのである。鎧がないと自由、軽くて本当の自分に出会える。もう私には必要がないものになった。「自分に負ける」とは「鎧を外すことが出来た」ということ。つまり勝ち負けの基準、土台には立たず、そのような勝ち負けの判断は要らないものであり自分がどうしたいかを選んだということ。もう勝った、負けたでの指標で自分は生きない。そんな指標で決められた自分なんてまた鎧を着ることになる。
私は自由、本当の私はすばらしいでのある。


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