顔の記憶

印象に残る人といえば、印象に残る顔である。たいていは。ましてや、誰かを好きになってしまったら、その人の顔が記憶に焼きつく。たいていは。

ある人を好きになったことがある。その人のことを毎日、考えていた。たったいちど会っただけの一目ぼれではなく、日常的に歓談しているうち、好きになってしまったのだ。だから、とうぜんその人の姿はよく覚えていた。今でも鮮明に想いだすことができる。顔以外は。

こう書くと、その当時はその人の顔を鮮明に記憶していたが、むかしのことなので、今は顔を想いだせなくなったというように響く。だが、そうではない。当時、現在進行形で、わたしはその人の顔を、なぜか記憶できなかった。なにも照れくさくて下を向いたり、目を背けたりして話していたからではない。ちゃんと相手の眼を見て話していた。ほかの人にもそのように接していたから、当時よく会話をしたほかの人たちの顔なら、今でもはっきり想いだす。それなのに、その人の顔は当時すでにあいまいなままだった。

古いハリウッド映画では、自主規制的にキリストの顔は映さないようにしていたという。だからキリストの後ろ姿とか、手だけが映ったりする。そう言えば、それほど古くはない、2018年に公開された映画『パウロ 愛と赦しの物語』でも、パウロは処刑される瞬間、群衆の彼方にキリストがいる幻を見るのだが、やはりキリストの顔は分からない。わたしにとってその人はつねに、映画に出てくるキリストのようであった。手や足、服や靴、声やふるまいなどは、なんだったら今でも映画のごとくあざやかに、記憶のうちに再生できる。ところが、顔はあいまいなのである。しかも、それが過去だからそうなのではない。当時すでに、現在進行形で、そうだったのだ。

その人と会話しているときには、とうぜんその人の顔を見ながら話しているのだから、その人の顔を認識している。「この人はだれ?」と思いながら話しているはずがない。それなのに、その人と別れたあと、その人への思慕はつのるいっぽうであったにもかかわらず、肝心な顔が想いだせない。声、手指の繊細な動きや足運び、露出した肌のわずかなしみ、姿勢、着ている服の色や生地、履いている靴などはすべて想いだすことができるのに、もっとも想いだしたい顔がぼやけている。額に髪は下りていたかいなかったか。眉毛は。両目の隔たり具合は。鼻筋は。そして、心のうちで何度でも再生できるあの声を発した口はどのような形で、どのように開いたり閉じたりしたのか。それらはぼやけているどころか、まったく想いだせないことすらあった。

顔が想いだせないからこそ、いっそう思慕はつのる。この感覚を読者に共感していただけるか、心もとない。ふつうは誰かを好きになるとき、まずはその人の表情に惹かれるはずだからだ。それとも「まずは顔」という、この思い込み自体が刷り込みの産物に過ぎないのだろうか。メディアには芸能人があふれているが、とうぜん彼らは顔で勝負している。単純な意味での美醜ではない。視聴者にとって強く印象に残る顔を造れるかどうか。それが芸能人にとっては生き残りをかけた闘いでもある。芸能人本人だけではない。売り上げはメディア自体の存亡にかかわるのだから、メディアも芸能人の顔を、いかに魅力的に映し出すかにこだわる。顔、顔、顔…見渡せば、看板やポスターから手元のスマートフォンの画像にいたるまで、顔があふれている。

芸能人のファンになるなら、まずは顔だ。美しい顔。滑稽な顔。醜悪な表情に魅了されることもある。顔から入っていくことに、わたしは馴れ親しんでいる。しかし2.26事件の折、決起将校たちは首相の顔を知らず、人違いの殺人をしたという。彼らは新聞の不鮮明な顔写真しか知らなかったのだ。歴史を振り返ればつい最近まで、自分の身近な人以外は皆、ハリウッドの自主規制キリストのような存在だったのかもしれない。人は手紙や歌のやりとりだけで相手を慕うこともあった。それらの時代、顔は今ほどに恋愛のすべてだったのだろうか。相手の言葉やそれを発する声、和歌の世界なら御簾の向こうに垣間見える手の動き。顔以外のものから、人は相手を求めずにはいられなくなる、そんな時代もあんがい長かったのかもしれない。

もちろん、歴史を振り返ったからと言って、この現代を生きるわたしが、恋い焦がれる女性の顔を、それもひんぱんに見て話しているにもかかわらず、記憶できないままであったことの説明にはならない。心理学的には、なにかの抑圧が働いたということなのかもしれない。わたしには事情があり、その人を好きになれる立場ではなかった。わたしは窃視について繰り返し語ってきたが、ほんとうは好きになってはいけない人のことを、覗き見るように恋い焦がれてしまったのである。覗き見とは、隠れて、隙間や穴などからこっそり相手を見ることだ。大きな窓なんかに堂々と姿を現して覗くなら、それはもはや覗きではない。さきほど垣間見えるという話をしたが、そういえばむかし古文で「垣間見」という言葉を知った。貴族の男性が垣根のあいだから、意中の女性を覗き見ることだ。いずれにしても覗き見には障壁が多く、相手の姿すべてを明らかに見ることはできない。

わたしはその人と向きあって話しながら、じつはその人の後ろ姿を垣間見ているだけだったのかもしれない。見えないから、恋い焦がれる。じつに身勝手な話ではある。

相手に退屈して、別の相手と不倫をする人はたぶん、元の相手に秘密を感じていない。元の相手のすべてを明らかに見渡したと勘違いしている。だから退屈する。しかしそれはやはり、勘違いである。人は他者をすべて明らかに見渡すことなど不可能である。相手にはかならず、自分の知らない秘密がある。その秘密を知ろうとすること────この場合、ほんとうに知ることができるか否かは問題ではない。相手のスマートフォンや日記を無断で見るのは、たんなる暴力の行使であり、知ろうとすることとは異なる────は窃視そのものとは異なるかもしれないが、相手とのつながりを持続させる、その力のひとつにはなるだろう。

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