彼らがそこにいたとき
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。(『歎異抄』第九条)
牧師をしていて、なに一つうまくいかない時期があった。幼稚園の仕事もしんどい。教会ではトラブルのない月はない。心配事のない、あるいは心配事を忘れられる日がない。結婚生活もギスギスしている。体調も悪く、大事なときに限って風邪をひいては高熱を出す。医者に行き、薬を飲んでもなかなか治らず、何度もぶり返す。顔には赤く膿んだ吹き出物があちこちにできていた。
仕事への熱意はあった。やる気がないとか、手を抜いて事務的にこなしていたとかいうわけではない。ときには小さな喜びも、あるにはあった。ただし、それは線香花火、あるいは安物の打ち上げ花火のような、すぐに燃え尽き、消えてしまう輝きであった。消えたあとは漆黒の静寂しかなく、輝いた後だけに、その黒さ静けさは、とても重苦しかった。
そんな日々のなか、わたしは『歎異抄』を読んでいた。講談社学術文庫版で、たしか梅原猛が注釈や解説をしていたと思う。所々に福音書との比較なども言及されていて面白かった。あくまで知的な学びとして、わたしはそれを読んでいた。
だが第九条まで読み進めたとき、わたしは、なにかあたたかいものに包まれる心持がした。親鸞聖人が、いや、ただの親鸞が、「そうか、お前もか。わしもじゃよ」と。この親鸞なるご老人が、わたしの肩に、そっと手を置いてくれた気がしたのである。わたしは読書していて泣くことなどほぼ無いのだが、このときは涙が目からこぼれた。親鸞の、身体を動かしたときの衣擦れの音、お香の薫り。そういったものが聴こえ、匂ってくるような気がした。
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