誰が烙印を押すのか

今年観たいくつかの映画のなかで、とりわけ突き刺さったものがある。『友罪』である。中学生時代いじめられていた親友をかばいきれず、彼を突き放してしまったその日に自殺されたことを、今なお悔やみ続ける元記者。一方、やはり中学生時代に連続殺人事件を起こし、未成年ゆえ死刑にはならず、ひっそりと社会生活を送る元少年A。さらに、交通事故で人を死なせてしまった息子と、遺族に拒絶されても謝罪し続けるその父。彼らそれぞれがおそらく一生背負ってゆかねばならないもの、その長い人生のなかの一断片を本作品は描いている。

わたしはこの映画を観ながら、聖書に登場する使徒パウロのことを想っていた。パウロはこう語る。

「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」  使徒言行録 22:4  以下、引用は新共同訳

パウロが言う「この道」とはキリスト教のことである。厳格なファリサイ派のユダヤ教徒であった彼にとって、キリスト教徒たちは信仰を冒涜する者たちであり、ゆえに万死に値する存在であった。原文を読むと「死に至らしめた」とも読めるため、彼が直接人殺しをしたのかは厳密には分からない。だが殺害現場に居合わせ、それを積極的に手伝ったことは間違いないだろうし、新共同訳のとおり、ほんとうに殺した、それも何人も、子どもさえも含めて殺した可能性も高い。

ところが、パウロは自分が殺した側の人々が信じる信仰へと回心した。当時の信仰には個人的信条として独りで信じるという選択肢はない。信仰すれば、必ず信仰共同体に所属することになる。つまり、パウロは自分が殺してまわった共同体に合流することになったわけだ。もしかすると、自分が手を下した死者の遺族とさえ対面する機会があったかもしれない。現代風に言うならば、殺人犯が服役もせず刑罰も受けることなく「赦されて」その被害者/遺族に受け入れられたということである。これは古代だからといって看過できることではないはずだ。パウロを受け入れた側の心情たるや、想像を絶するものがある。そしてパウロ自身の苦しみも。

映画『友罪』において、主人公たちの葛藤はすさまじい。自傷的でさえある。彼ら一人ひとりは、その生活の一瞬たりとも「自分(の息子)が人を殺した」ということを忘れられない。死者の顔は彼ら一人ひとりに烙印となって焼き付けられている。自分の死なせてしまった/殺した相手の顔を、彼らは忘れていない。決して忘れられない。夜にゆっくり安眠することもできない。眠れば悪夢が訪れる。
パウロは次のように語る。おそらくそれは教えというより、彼自身の心情吐露である。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  ローマの信徒への手紙 12:19-20

パウロはキリスト教徒の誰からも復讐を受けなかった。むしろ復讐してもらったほうが楽だっただろう。被害者から復讐されず赦され、遺族たちから迫害されずもてなされた。だからいっそう、彼は燃える炭火で烙印を押され、焼かれるような苦しみを負った。「恥ずかしい」とか「穴があったら入りたい」などというレベルをはるかに超えて、彼はその信仰に大やけどを負い、そのやけどに駆り立てられるように、苦しく危険な伝道の旅をすることになっていった。まるで、自分は痛めつけられ、殺されて/殉教して当然なのだと、行動で示すかのように。

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