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ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。  使徒言行録 16:14 新共同訳

牧師の業務には、非信者へ向けてキリスト教の伝道をする仕事も含まれる。どんな宗教でも勧誘なりなんなり、信徒を増やしたいと思うのは自然なことである。こと日本では、常識的に考えて勝手にキリスト教信者が増えることはあり得ない。だから、それこそ必死で伝道に務めるわけである。

この伝道であるが、ヨーロッパ世界では長い歴史のあいだ、当たり前のことではなかった。というのも、統治者の宗教がすなわち領民の宗教である時代が長かったので、国家がキリスト教であれば自動的にそこはキリスト教圏であった。だから伝道などする必要はなかった。むしろ既存の教会とは無関係に、自覚的に福音を語ることは異端として弾圧される危険が高かった。それが嫌な人たち、自分の信仰は自分で貫きたい人たちが、信仰の自由を求めてアメリカに渡った。アメリカでは初めて、実質的な政教分離と信教の自由が成立した。

政教分離とはすなわち、政府は一切教会に干渉しないということである。だから政府は教会を保護もしない。そして国民も教会を自由に選ぶことができる。アメリカで教会は初めて自由市場化した。評判になる教会はどんどん信徒が増える一方で、すっかり寂れて滅びる教会も出てきた。だから教会は信徒獲得のために伝道をしなければならなくなった。

もちろんそれよりずっと前、織田信長の時代にカトリックのイエズス会ほかが南米や日本へ伝道したという歴史もある。だが、いわゆる「未開人」相手ではなく、すでにキリスト教信者相手に伝道をしなければならないという事態。これはアメリカで始まった。そして、そのアメリカのプロテスタント教会の伝道手法が応用されて、明治の日本にも伝来したのである。

そんな歴史の末端で、今、わたしもキリスト教を伝道している。今までの任地では教会の宣伝ビラを家々にポスティングしたこともあった。しかしほとんど効果がなかった。そこで今は、ツイッターで教会や自分自身のことを呟くようにしている。どんな人間が牧師をしていて、教会の雰囲気はどういうものであるのか。その断片でも知ってもらえればと思ってやっている。呟きが私的に流れ過ぎて失敗しては、苦労して本来の目的へと軌道修正する日々である。

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