いま、どこ?
教会で毎週行っている「聖書を読む会」で雑談をしていて、ある方がこんなことをおっしゃった。
「子どもが『なんで食前に感謝の祈りをささげるの?』と。何と答えたらいいのか、『そうだねえ』としか言えませんでした。」
その場しのぎの適当なことをおっしゃらない、その方の親としての誠実さに感銘を受けつつ、わたしも「なぜ感謝するのか」について考えてみた。
人類は食物を獲得するための、長い長い、気の遠くなるような努力を重ねてきた。縄文時代の日本人(「日本」人といっていいのか分からないが)も、木の実を貯蔵したり、貝を海水で茹でて干したり、海藻にかけた水を煮詰めて塩を作ったり…と、そういう手法を何千年もかけて編み出していった。それまでにはおそらく何度も食糧危機があったはずだ。
聖書にも飢饉がしばしば言及される。人々は食糧を求めてイスラエルからエジプトまで旅をしたりする。故郷にわずかな備蓄を残し、さらに限られた食糧で長旅をするのは苦しいことだったろう。それともいちかばちか、手持ちの食糧ぜんぶ積んでいったのか。いずれにせよ、餓死への不安はわたしの想像を絶するものがある。
ところで我々はというと、好きなときに好きなものを、安く食べることができる。コンビニエンスストアは我々の生活を一変した。しかし数千年、数万年、数百万年という人類の歩みを思うとき、コンビニなど1秒前に出来たのと同じだ。たった1秒前に、やっと我々は「小腹が空いたらとりあえずコンビニへ」というライフスタイルを確立した。これは人類史においては革命的であり、きわめて例外的なことである。そして世界を見渡せば、食うに事欠く人々のほうがまだまだ多い。
食前に「いただきます」、食後に「ごちそうさまでした」と言うのは、とくに信仰のない人であれば、それは食材を産出、加工してくれた人たちへの感謝である。しかし、そこに時間軸も加えられると、わたしは思う。古代人たちへの感謝である。古代人まで遡る必要もないかもしれない。つい最近の、近代以前の人々。彼らは食糧を手間暇かけて獲得し、飢饉を乗り越えて生き延びてきた。彼らが死に絶えていたら、我々も生まれてはいない。生き延びてくれてありがとう。食糧を獲得してくれて、工夫して加工してくれて、ありがとう。
記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。