マウンティングからおりる

'そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 ' マタイによる福音書 20:20-28 新共同訳

ヤコブとヨハネのお母さんは、息子たちをイエスの王座の左右に座らせてもらえるよう願いました。このお母さんは、イエスに何を期待していたのでしょうか。そのころ、イスラエルはローマ帝国の属州でした。ユダヤ人の熱心な信仰者が反乱を起こしては鎮圧され処刑されていました。イエスが生まれた頃にはガリラヤのユダという人が民衆を率いて蜂起しましたが、彼を含めて二千人もの人々が磔の刑に処せられたそうです。

圧政のなかでユダヤ人たちは救い主を待ちわびていました。その救い主とはきっとダビデ王のような神に選ばれた王者、あるいは生きたまま天に挙げられたエリヤのような預言者、さらには神の代理としての大祭司かもしれないと、人々は想像しました。また、ダニエル書7章には「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた」とあります。そういう神秘的な「人の子」が到来し、世を支配する日が来る。そう信じていた人たちもいました。いずれにせよ、そんな救い主が悪しきローマ帝国を滅ぼし、イスラエルを解放すると、人々は期待したのです。ヤコブとヨハネのお母さんもまた、そういう救済者、解放者としての王者の姿を、イエスに重ねていたのでしょう。

ヤコブとヨハネ以外の弟子たちは、このお母さんの要求を聞いて腹を立てました。抜け駆けはずるいぞと。ヤコブやヨハネがイエスさまの左右に座れるんだったら、おれたちにだって座る権利はあるはずだと。この争い、マタイによる福音書を書いた人自身にとっても耳が痛かったでしょうね。教会ではその初期から「誰が偉いのか」ということで争いがあったからです。パウロはコリントの信徒への手紙二10章で次のような批判をします。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。教会が形成され始めた初期に、すでに指導者同士で、誰がいちばん偉いのかをめぐって争われていたのですね。

わたし自身も、他の牧師を妬んでしまうことがあります。とくに若い頃は、多くの人に洗礼を授けている同業者にライバル心を燃やしたり、「なかなか結果がでないけど、おれのほうが真面目にやっているんだ。あいつは要領がいいだけだ」と心の中でつぶやいたりしていました。今でもときどきあります。牧師なのに恥ずかしいです。それだけに、ヤコブとヨハネのお母さんの言葉に対して他の弟子たちが怒ったエピソードとか、パウロの批判などに、ちょっと慰められます。ああ、昔からそういうことがあったんだなあと。おれだけじゃないんだなあと。

そんな親しみを感じるからこそ、イエスの言葉が、今、このわたしに語りかける言葉として聴こえるんです。他人と比較し、羨ましがり、妬もうとするわたしにブレーキをかけてくれるんです。「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」 。イエス・キリストは王座から命じるのではなく、わたしの前に跪いて、わたしを見上げ、仕えてくれる。もちろん、あなたに対しても。イエスはマウンティングをとられることなんか、まったく気にしない。そんなことより、あなた自身のことが気になって仕方がない、そういう人なんです。

そんなイエスを前にすると、「わたしもこのイエスのように、あなたに仕えよう」、そう思わずにはおれなくなるんです。そうやって、お互い仕えあうことができたらいいなあと思えるんです。

ここから先は

0字
このマガジンの記事を踏み台に、「そういえば、生きてるってなんだろう?」と考えを深めて頂ければ幸いです。一度ご購入頂きますと、追加料金は発生いたしません。過去の記事、今後更新される記事の全てをご覧いただけます。記事は200以上ありますので、ごゆっくりお楽しみください。

牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過…

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。