たんなるノスタルジーではなく

つれあいが最近、モレスキンというブランドのノートにあれこれ書/描き込んでいる。一つは無地、一つは罫線が入っている。モレスキンは19世紀後半に起源を持つ手帳らしく、一度は途絶えたものの、最近になって復刻されたという。彼女いわく、道具が立派だと書く/描くことそのものが楽しいと。彼女はペンや色鉛筆なども、お気に入りのものを揃えている。

彼女が手帳にあれこれ書/描いているのを見ながら、わたしは以前見た編集者の手帳を想いだしていた。彼は著者と打ち合わせをしながら、素早く手帳に書き込んでいく。そして話しあいが終わった頃には、彼の手帳には著作の完成図が描かれていた。ざっと描いているだけなのに、わたしにはその「本」のデザインや分厚さ、手触りが伝わってくるようであった。図のまわりで細々と踊る文字も含めて、これ自体が一つのイラスト、作品ではないか。飾って眺めたい、そんなふうに感じたものだ。

最近、阪神淡路大震災の頃に書いていた日記を読み返した。今までも震災の日付にあれこれ想いだすことはあった。しかし日記を開いたことはない。なぜ今年に限って日記を読んでみようと思ったのかは分からないが、とにかく手に取ってホコリを払い、むせながら頁を開いた。すると、記憶だけを頼りにしていたそれまでの回想とはまったく違う世界が、そこに開けたのであった。震災前日までの、比較的落ち着いた文字。そこには20代なりの自信さえ感じられる。まるで読んでいる自分が20代前半に戻ったような体感がある。映画なんかでよく、冒頭に古い日記を開き、とたんにその日記の時代へと場面転換される演出がある。あれは嘘ではないのだと分かった。当時の、今とは異なる筆致が、読むわたしを当時の身体へと引き戻すのだ。

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