漢字を憶い出しながら手書きする

先日、たまたま機会があって、編集を仕事にしている人とお会いすることがあった。その人が打ち合わせするのを、わたしは横で見ていた。

その人は相手の話を「はい、ええ」と何気なく聞いているようでいて、じつはぜんぜん違っていた。最初はただの日常会話をしているとしか思えなかったのだが、わたしはその人の手元を見て、びっくり仰天したのである。

その人は手帳に素早く図を描きながら、メモをとっていた。青いインクの、勢いある伸びやかな線で書/描かれたそのメモは、端的に美しかった。きっと、あとで手帳を開けば相手が何を話したのか、どんな打ち合わせをしたのかが、すぐに分かることであろう。

わたしは以前、ある記者がインタビューしていた時の様子を想いだしていた。その人はICレコーダーをテーブルに置いて、ひたすら相手に傾聴していた。メモはとっていなかった。記者は社に帰ってから録音を再生し、文字に起こして記事にしたのである。一方で、コロナに関連してわたしのもとに取材に来た別の記者は、大学ノートを広げてわたしの話を熱心に書き込んでいた。わたしが「ICレコーダーがあれば、そんなに必死で書かなくてもいいんじゃないですか?」と尋ねると、彼はにっこり笑って答えた。
「編集部に帰って、また一から今のお話を聴き直すんですか?今ここでしっかり頭に叩き込むために、わたしはノートをとっています。そうすれば帰るまでにはだいたい、記事のイメージは出来上がっていますよ」

手書きは脳みそに直接刻み込んでいる。わたしは大脳生理学のことは分からないが、こうやってパソコンのキーを叩くのとペンで文字を書くのとでは、おそらく脳の反応する部分が違うと思う。さらに、SNSと手書きメモとの違いで言えば、前者は人に見られることを前提としているが、後者は自分の仕事のために、つまり自分独りだけが見るために書いている。SNSと手書きとでは何かを書き込むに際して、脳の働きはまったく違うのではないか。

ツイッターでずっと怒りをぶちまけ続けている人を見ていると、たまに「この人はわざわざ怒るためのネタを探しているのではないだろうか」と感じることがある。怒るのは不愉快なことだから、ふつうは出来る限り避けたいものである。ところが、この不愉快なことにも依存性があるようで、次から次へと怒りの燃料になることを探しては、怒りを燃やし続けている人を見かける。もちろん、実生活でいつも怒っていたら人々から避けられ、孤立してしまう。だから、それはやめられないという意味で依存的ではあっても、あくまでSNSにおける憂さ晴らしなのだろう。

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