人は変われるのか、所詮変わらないのか

パメラ・D・シュルツ著、颯田あきら訳『9人の児童性虐待者 NOT MONSTERS』(牧野出版)を読んだ。

著者のパメラ・D・シュルツは幼少時に隣家の男性から性的な虐待を受けた。隣家の男性は近隣からの評判も良く、著者の両親も彼と親しかった。それだけに著者のショックは大きく、また、誰にも話すことができなかった。その後男性は逝去したため、今さら彼に謝罪を求めることも不可能となってしまった。

彼女は長じて、大学でコミュニケーション理論について研究をするようになる。だが幼少時のトラウマからか、危険な性行為やドラッグ、摂食障害や自傷行為など、不安定な生き方をやめられない。詳細は省くが、彼女は自分の過去を直視しない限り道は開けないとの確信に至る。そこで研究テーマも児童性虐待すばりそのものに変更するのである。

ただし、彼女の研究はきわめて稀有なものであった。なんと彼女自身が刑務所に向かい、児童性虐待の罪で懲役を受けている囚人にインタビューをするのである。児童性虐待被害のトラウマを持つ当事者が、児童性虐待の加害者と向きあったのだ。比喩的な意味ではなく、現実に。そして彼女は気づいてゆく。メディアが煽るような意味でのモンスターではない、ふつうの人間としての彼らの姿に。

インタビューにおいて、児童性虐待を行った9人それぞれがセルフナラティヴを行う。どんな人生を歩んできたのか、また、どんな犯罪で逮捕されたのか。犯罪に至った理由はなにか、等々。それは「セルフ」ナラティヴではあるが、完全に他から孤立した、それこそモンスターのような個ではない。「セルフ」とはいっても、例えば模範囚として刑期を早めたいとか、周りがそう期待しているからとか、さまざまな理由から、彼らは反省の言葉を語る。その一方で、自分の生い立ちの悲惨や、自らも幼少時に性虐待を受けたことなどを強調して、自分のしたことの罪責を軽く見せる、あるいは自己弁護しようともする。片方が建前で片方が本音というわけでもない。周囲から期待され、支援され、促されるなかで、本当に反省している囚人もいる。彼らは自分以外の人間や環境との関係のなかで「セルフ」を再構築し続けているのである。

これら加害者の声を聴いていると、わたしは精神科に入院していたときのことを想いだす。わたしも医師に対してセルフナラティヴを頻繁に行ったし、ライフヒストリーの長文を書いて提出もした。医師はそのたびに「なぜ、あなたはこのとき、そう思ったのですか」とか、「あなたはなぜその出来事について、そのように表現するのですか」、あるいは「その出来事を、別の視点から見ることはできませんでしたか」などと、鋭い質問をしてきた。わたしは質問される毎にどきっとしたり、腹を立てたりした。まあ、お恥ずかしい話ではあるが、刑務所ではないこともあって、椅子を蹴とばして大声を出してしまったこともある。セルフナラティヴにおける自己弁護というのは、意外に強情で、根深いものがあることをわたしは知った。自分でももはや理屈が破綻しているとはっきり分かっているのに、これまでの見解を変えられないのである。

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