「と」を感じる
プロテスタントのキリスト教世界では、しばしば「信仰とはご利益を求めることではない」と言われる。どういうことかというと、健康や長寿、金運招福を祈るのではなく、たとえ現状が多少辛くとも、今すでにある状態を神に感謝しつつ、神と対話するように祈るべきだというのである。そして賭け事など分かりやすい幸運が訪れたとき、安易に「神さまのおかげだ、ラッキー!」と喜ぶなというのである。
ところで今日、テレビで『ツタンカーメンの秘宝』なる番組をなんとなく観ていた。「復活と永遠の命」とナレーターが何度も語るので、まるでキリスト教の説教を聴いているようで可笑しかった。強大な権力を持った王が、復活と永遠の命をひたすら願い、それを象徴する宝物で墓所を満たしたのである。そこには王の、「願ったことは何が何でも実現してもらいたい」という神への強烈な要求がある。金運招福へのご利益信仰どころではない。命の取り引きにまつわる、信じられないほどの金銀宝石や加工技術を駆使した、神への要求である。
人間は神に祈るとき、さすがに金銀財宝までは用意できないにせよ、やはりツタンカーメンのように神と取り引きしたいと願う、自然な欲求があるものだ。神が何の願いも叶えてくれないという前提があるとしたら、神社に初詣に行くだろうか。まあ、公園でくつろぐような気持ちで境内を散策するのは楽しいだろう。だが正月に大混雑してまで行く気にはならないはずである。そこには、げんをかつぎたい、自分の願いを叶えたいという思いがあるはずだ。
その一方でほとんどの人は、神社の神さまが自分のもとに現れ出て、願いを叶えてくれるなどとは本気で考えていないだろう。お寺の仏さまにしてもそうだ。「護ってくださっている」みたいな、なんとなく有難い感じはするかもしれない。でも、努力は自分でするものだと誰もが考えているのではないか。それに、実際に願いが叶ったときに、神社に初詣したことを想いだすだろうか。願いが叶えば人は実感するだろう。努力の結果が達成されたと。
ではなぜ、それでも初詣に行くのか。わたしはこう想像する。人々は初詣に行くという行為を楽しみつつも、神社で手を合わせるときには真剣であると。二礼二拍手一礼という一連の行為をとおして、その人は自分の願いを言語化し、自覚し、かたちにしているのであると。賽銭を投げるとき、ぼんやりしている願いを小銭と共に一度神の前に投げ、明確にし、改めて自分の心へと受け取りなおしているのだと。
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