「正しく」振る舞わないことを恐れて ~クリスマスのおはなし
'イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。'マタイによる福音書 1:18-25 新共同訳
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。ヨセフは何を恐れていたのでしょう。申命記には次にようにあります。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない」(22:23以下)。ヨセフは正しい人であったとあります。正しい人というのは、信仰において正しい人です。そして当時、信仰において正しい人とは、この申命記などに書かれている律法をきちんと守る人のことでした。そしてユダヤ人の共同体において、信仰をローマの浸食から守り抜くことは政治的な闘いでもありました。だから信仰において正しい振る舞いとは、政治的に正しい振る舞いでもありました。ヨセフは政治的に正しい人でもあったのです。
そんなヨセフの婚約者マリアが、まだ婚約中なのに妊娠していると分かった。ヨセフは、自分以外の男性とマリアが性行為をしたと思った。彼がどんな複雑な思いを抱いたのか詮索するのはナンセンスです。ただ、彼は信仰的政治的に「正しい」人だった。ヨセフがもしも「マリアはわたしと婚約中なのに、他の男の子供を妊娠した」と公言すれば、マリアは申命記に書いてあるように、公の場に引きずり出されて石を投げつけられ、殺されてしまうかもしれない。マリアは13~4歳くらいです。いくら当時の平均寿命が短く、人が早熟だったとはいっても、そんな娘が投石され、頭から血を噴き出して死ぬ姿を、ヨセフは見たくなかったでしょう。だから彼は信仰的政治的に「正しく」おもいやった。
つまり、マリアと縁を切るという決意です。申命記には次のようにもある。「もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない」。彼女が出産しても、暴行を振るわれたのだとなれば、殺されはしないだろう。ヨセフはそのように「正しく」考えたのでしょう。そして、婚約そのものも最初からなかったことにしてしまえば、いずれにせよ申命記のルールは適用されなくなるのですから。
だが、このようなヨセフの信仰的政治的な正しさは、神の眼から見れば正しくはなかった。神は問うたのかもしれません。ヨセフはほんとうにマリアを思いやったのだろうか?と。じつはヨセフは、自分が正しく振る舞わないことで、信仰的政治的に正しくないと社会からみなされてしまうことを恐れたのではないか。信仰的政治的に正しくないとなれば、大工の仕事も受けられなくなるという不安もあったかもしれません。そしてなにより社会的評価!それを見越して、神はヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と励ましたのではないでしょうか。ヨセフがいちばん優先したのは、じつはマリアのことではなく、自分の信仰的政治的な正しさだったのかもしれないのです。もちろん信仰はなによりもまず神と自分(ここではヨセフ自身)との関係です。ですが古代社会には個人主義はありません。信仰的政治的に正しい振る舞いをしているかどうかは、共同体の人々による評価に大きく依存したのです。その評価を失ってしまうことは、マリアの身の上を案ずることよりも、ヨセフにとっては恐ろしいことだったのではなでしょうか。
イエスが誕生するにあたり、ヨセフが、自分の子ではない子供を身ごもったマリアと共に暮らすと決めたこと。それは、とても勇気が要ることでした。それはこんにちでも同じです。わたしや、あなたにとっての、「昨今の流れではバッシングを免れない人」を、神の前でだけ、正直に思い浮かべてみてください。そして、その人を屈託なく受け容れる自分自身を、やはり神の前で、静かに思い浮かべてみてください。社会的な正しさの規準が何であれ、目の前の人を受け容れようとすること。それは、現代のマリアが、そして現代のヨセフが、生きやすい世のなかを作るための第一歩です。
イエス・キリストが、たんなる夫婦ではなく、こういういきさつのある夫婦のあいだで生まれ育ったことに、思いを馳せてみてください。今、なかなか理解を得ることができない、さまざまな苦境にある人。あるいは他人から理解されない苦境にある、あなたご自身のことを想像してみてください。キリストは、そんなわたしたちと共に。お祈りします。
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生きること、死ぬこと、そのむこう
牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過…
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