それでも旅を続ける

'イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 ' マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳

教会に初めて来る人がいます。それは日曜日のときもありますし、平日のときもあります。初めて来る人は、どんな気持ちで教会に来るのか。今すでに信徒である人にも、信仰の始まりというか、教会に初めて来た日があります。また、親の信仰を受け継いで、物心ついた頃から教会に通っていた人であっても、引っ越しなどで別の教会に通わなければならなくなった、その最初の日があったかもしれません。

わたしは、自分が無職だったときのことを思い出します。5年前の今頃、わたしは無職でした。仕事もなく、これから先もどうしたらいいのか分からなかったとき、とりあえず日曜日は教会に行こうと思いました。ただ、あらためて一信徒として、なじみの薄い教会に通おうとすると、心理的な抵抗はすごく大きかったのです。自分の身の上が不安定な状態で、大勢の人のなかに入っていく勇気。まして平日となれば、ドアが閉まっている教会の、ドアホンを押さねばなりません。それはまるで、まったく知らない人の家にいきなり訪問して、ドアホンを押すのと同じくらいの勇気が要りました。

教会に初めて来る人たちにとっても、もしかしたら、わたしが感じたのと同じくらいの勇気が要るのかもしれません。そして、げんに、その勇気を振り絞って教会に来る人たちがいるのです。わたしはその一人一人に、「よく勇気を奮って来てくださいました。ありがとうございます」と、そういう気持ちで接しています。

ところで、占星術の学者たち。状況説明もなく、さらっと「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とだけ語られています。ですが彼らはおそらく、エルサレムから何百キロも離れている、ペルシャやバビロニアから来たのです。何か月もかけて、らくだに乗って来たのでしょう。往復で考えれば、年単位の時間をかけて。旅の装備や食料の調達、予備のらくだ、案内人の手配などを考えれば、莫大なお金も使って。それだけのことを、彼らはさらっとできたでしょうか。

いいえ。彼らは相当な決断をし、勇気を振り絞って、旅の途中ではトラブルにも遭いながら、それでも「いや、なんとしても新しく生まれた王のところに、礼拝しに行く」と。そんな、すがりつくような決意を繰り返し新たにしながら、旅を続けたのだと思います。行ったこともない遠い国に出かける彼らの不安と、それでも「行けば何かが分かる」という期待とを、ぜひ想像していただきたいのです。

教会に、イエス・キリストがおられます。そして教会に礼拝に来た人たちは、はるばると、この占星術の学者たちのように、自分にとっての黄金や乳香や没薬を献げるためにやって来たのです。教会から家が近いか遠いかは関係ありません。家が近くても、教会が果てしなく遠く感じられることは実際にあるのですから。5年前のわたしがそうでした。すでに信徒であっても教会が、否、神が遠くに...そう、果てしなく遠くに感じられることがある。それでも今年最後の礼拝に集まってくる人が、げんにいる。占星術の学者たちが、はるばるイエスの顔を見に来たように。礼拝に顔を出すこと、あるいは平日に教会を訪ねること。それは当たり前のことではありません。そこに来る人一人一人の、信じる勇気によって成し遂げられる行為です。

来年もまた、旅を続けましょう。占星術の学者たちは長い、ほんとうに長い旅を、一度だけ行いました。ですがわたしたちの旅は、生きている限り続きます。そしてわたしたちは目的地を目指しているのでもあり、同時に、すでに目的地に辿り着いてもいるのです。なぜなら、イエス・キリストはすでに、皆さんと共におられるのですから。お祈りします。

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