相手への不快感をどうするか

人は誰とでも仲良くなれるわけではない。もちろん、誰とでも(ほとんどの確率で)仲良くなれる特技や個性を持つ人もいる。だが、人見知りする人だっているだろう。また、お互いとくに難はないのだが、好みなどがことごとく噛み合わず「この人とは、どうも...」と、つい避けてしまう相手もいるかもしれない。それは教会であっても同じである。教会の内部にあっても、人付き合いの濃淡や、赤裸々に言えば力関係みたいなものは生じる。

しかし言い換えれば、もしも「完璧に均等な」付き合いを教会員全員に求め、しかもそれがなかば強制的に実行されたとすれば、それは教会員各自の人格的自由を侵すことになる。そしてそのことに教会員が何の違和感も感じなくなってしまったとしたら、それは洗脳といってもおかしくない状態かもしれない。誰もがニコニコ、誰とでも「等しく」、表情の変化なく付き合っている状況を想像していただきたい。わたしならぞっとする。

教会は皆が頭を下げて祈り、顔を上げて賛美する場であると同時に、神から与えられた自由を行使する場でもあるのだから、各人が「わたしはこう思う/考える/感じる」といったことを意思表示してよいはずである。そうなれば当然、意見の衝突が起こることもあるだろう。「意見とその人の人格とは分けて考えよう」とは学校でもよく言われることだが、実際には難しい。意見が衝突する人とは、付き合いも疎遠になりがちである。それで教会内の人間関係にアンバランスが生じることもあるのだ。

しかし教会において、このアンバランスにはブレーキが働くことも忘れてはならない。つまり、「わたしが神の子なら、あなたも神の子」ということである。この人とは意見も好みも噛み合わない。なんだったら生理的に受け付けないといってもいいくらいだ。意見と人格とを分けるとはいっても、今はこの人と接したくない────まさにそのとき、「でも」が働くわけである。でも、この人は神の子だよね。わたしが神の子であるように。

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