ファンであることと信仰

わたしは、年の離れた姉や兄がビートルズを聴いていたこと、おぼろげにではあるがジョン・レノンが撃たれて死んだときのニュースを覚えていることなどがあって、ビートルズが好きである。正直、音楽は後づけだといっても過言ではない。姉や兄との想い出があり、レノンの死があって、その音楽が神話的な響きを持つようにになっていった。神学生時代、整備に出していたバイクの様子を見に行った工房で聞いたジョージ・ハリスンの訃報も、その愛着を強化した。

無職だった時に、ちょうどジョン・レノン没後30年を迎えた。わたしももう少しで彼の死の年齢に近いところまでいっていた。追い詰められて、日々「自分の終わり」について考えていたわたしは、無職なのに無理をして彼のアルバム集を買ってしまった。聴いていたのはレノンの音楽ではなかろう。もちろん彼の音楽ではあるが、彼の死をとおして、わたしは自分の生と死のありかたを聴いていたのである。

ところで、ジョン・レノンは歌でメッセージを説き、多くのファンを集め、40歳で非業の死を遂げた。今でも彼の亡くなった場所にはファンが「巡礼」しているという。死後40年近く経った現在では、彼にまつわるさまざまなスキャンダル(弱さによる躓き)も明らかにされているが、それはさておき、とにかく彼を神聖視するファンは今なお多い。まるでレノンがメシアであるかのようだ。実際、ビートルズが好きな、とくに中年以上の世代の方々には、レノンをメシアに限りなく近く感じていると思われる人たちもいる。レノンを熱く語り出したら止まらないその様は、初代の使徒たちの伝道を思わせる。

わたしも一時期、自分自身の態度も含めて「ジョン・レノンをこれほどに特別視して、まるで宗教みたいだな」と思っていた。しかし、それは少しちがうなと思い始めた。というのも、わたしがジョン・レノンを好きなのは、わたし個人のうちに生じる出来事である。他のジョン・レノンのファンも、それぞれに個人的に彼を好きになった。しかし、わたしと他のファンとが意識的に繋がることはない。それは、小説を一人ひとり、自分の部屋で読むような営みである。もちろんわたしとて、ジョン・レノンには世界中の膨大な「信者」がいることを意識しながら、またそうだからこその権威を感じながら、その音楽を聴いているのだろう。とはいえ彼の音楽をどう感じるか、どう解釈するかは無限にわたしの自由へと委ねられている。誰からの指図を受けるいわれもない。仮に「わたしはレノンから生きる信念をもらった。彼は死してなお、我々の心の内に生きている」と言ったとしても、である。その「我々」はとても曖昧な、「わたし」に言い換え可能な言葉である。しかし信仰は異なる。少なくともキリスト教においては、信仰は客観的なものだからである。ところで、「信仰は客観的である」という命題に、人々は首を傾げるだろう。信仰など主観の極みではないかと。

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