問いのなかで本を書く

今回、本を出すことになった。

お世辞にも素晴らしいとは言い難い、むしろ深い傷痕が今でも疼く体験を、長い原稿にまとめるというのは、苦しい営みであった。書きながら、忘れていたこと、忘れていたかったことが、次々と鮮明に、今目の前で起こっているかのように想いだされて、「もう書くのやめたいな」と何度か思った。

しかも、矛盾するのだが、書いていて喜びも感じていた。「おっさんは自分語りをするのが好きだ」とはよく言われることではある。わたしも漏れなくその一人であるらしい。自分の過去を振り返り、まとまった分量で文章にしていく作業は、創作の喜びを伴うことでもあった。上記のように純粋に苦痛なだけの作業であったなら、そもそも本を書こうとは思わない。

それと、noteの孤独な作業とは異なり、本を書くという行為は編集者との協働作業である。編集者の白戸さんの、やさしい眼差しと傾聴の姿勢。そしてその態度に裏付けられた、「こう書いてみてはいかがですか」という助言。それがあったからこそ、書物というかたちに仕上げることができたのである。白戸さんとの対話において、わたしの混乱した記憶は整理され、他人に伝達できるかたちを成していった。

わたしは精神科に入院することで、さまざまな問いを抱いた。「まともであること」への問い。自明さへの問い。それらの問いに答えるつもりで、この本を書いた。だが、かえって謎は深まるばかりである。わたしが牧会している教会には、痛みを抱えた人が言葉を紡ぎに、あるいは涙を流しにくる。電話をしてくる人もいる。そういう人と向きあうとき、わたしはその人の置かれた状況に悲しみ、憤る。その状況は「まともではない」と、わたしは思っている。この人に「まともな暮らしをしてほしい」と願っている。

けれども、わたしは「まとも」という言葉で、いったいなにを思い浮かべているのだろう。あまりにも漠然と「まとも」という規範にすがりついている。いや、「まとも」という言葉が漠然としているのだから、そんな漠然としたものに、どうやってすがりつけるというのだろう。

わたしは「まともなんてしょせん相対的なもの。異常も正常もなにもない」と、ニヒルに格好をつけたくはない。痛みを抱え涙する人が、笑えるようになってほしい。わたしはそういうなにかを求めているし、その先にあるなにかを求めている。相対では済まされないなにか、絶対にうれしいはずだというなにかを、厚かましく、暑苦しく求めている。相手からすれば余計なお世話、パターナリズムかもしれない。「すべては相対的であるにすぎない」でいいのかもしれない。それでもなにか、絶対的とはいわないまでも、安定的な「まとも」へのこだわりも捨てきれないでいる。だからわたしは迷い、悩むのである。

本書はそうした躊躇い、迷いのなかにありつつの、現時点でのわたしからの応答である。迷ってばかりもいられない、責任的に応答しなければならない、そういう思いに駆られての、わたしなりの応答である。

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