それは呪いだったのか

されど人の子を賣る者は禍害なるかな、その人は生れざりし方よかりしものを(1917年 大正改訳)

しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。(1955年 口語訳)

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(1987年 新共同訳)

だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。(2018年 聖書協会共同訳)

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵でも有名な最後の晩餐で、イエスがユダについて言及する場面である。出典はマルコによる福音書14章21節の後半部分だ。原文で οὐαίというギリシャ語があり、それをどのように訳すのかで、ずいぶんとニュアンスが異なってくる。つまりイエスがユダのことをどう思っていたのかについての印象が、である。

わたしは長年、新共同訳聖書に慣れ親しんできた。とくに牧師になってからはずっと新共同訳聖書である。イエスがユダのことを「不幸だ」と言っていることに、違和感を覚えたことはなかった。イエスは柔和な人格だったと、わたしは勝手に思い込んでいた。だからイエスは自分を裏切って当局へと引き渡そうとしているユダについても、彼は不幸だと嘆くにとどまるのだと思っていた。原文でどう表現されているのかまで注意を向けることは、正直なかった。

だが今回、聖書協会共同訳で、イエスがユダのことをはっきり「災いあれ」と呪っていることに気がついた。「いや、イエスは神の子だから、これは呪っているのではなくて云々」と、あとから護教的にいくらでも言おうと思えば言えるだろう。だが、ここはあくまで直観に正直になることにする。「災いあれ」と言うのは、やはり語感として呪詛である。新共同訳で、ユダの不幸を慮った言葉だと思っていたのが、聖書協会共同訳ではユダを突き放した呪いの言葉になっている。

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