理性的に原則で対処できないことがある
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」に展示された従軍慰安婦像をめぐって住民などから抗議が相次ぎ、そのなかには脅迫めいたものも含まれていて、主催者側は安全を考慮し慰安婦像を撤去することを決定したという。この出来事は表現の自由について、多くの人々が考える契機となった。
他人が不快となる表現はどこまで許されるのか。不快の許容度とは。公的助成金を用いた芸術祭で、納税者の多くが怒りを覚える内容を展示することの是非。その他にも議論は多岐に及んでいる。わたしは宗教者なので、やはり宗教的な観点からこの出来事に関心を持っている。
わたしも民主主義国家で生を享け、自由を謳歌させていただいている。だからこんな記事も好き勝手に書くことができる。ただただ感謝である。そして、わたしが自由を謳歌させていただいている以上、わたしと真っ向から対立する人、わたしが著しく不愉快だと思う人が自由を行使することをも、わたしは積極的に支持しなければならない。それが民主主義的な国家の原則である。
表現の自由が守られること。それは大原則である。しかし、人間は原則だけでは生きられないものである。たとえば、こういうケースを想像してみる。わたしはキリスト教徒であるから、聖書を大切にしている。わたしは聖書に書かれた言葉を支えにして生きている。あるいは聖書の言葉を手掛かりにして生き方を模索している。わたしにとって聖書のない人生は考えられない。厳密に言うなら、聖書を抜きにわたしは神をイメージすることができない。そして表現の自由のもと、パフォーマンスとして聖書が燃やされたり、汚物をかけられたり、踏みにじられたりしているのを、わたしが間近で見たとする。わたしはどう思うか。いや、どう感じるか。
表現の自由という大原則を知りつつ、わたしは自分の身体に激しい怒りが衝き上げてくるのを覚えるだろう。わたしはこの「表現者たち」を赦せないと思うに違いない。そこではもはやわたしと「表現者たち」との対話は成立しない。自分の生き方そのものを蹂躙されたと感じたわたしは、それが美術展であれば「すぐにやめろ!」と絶叫してしまうかもしれない(もちろん「印刷物としての聖書なんだから問題はない」と冷静さに踏みとどまるクリスチャンもいるとは思う。これはわたしの話である)。
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