かけがえのあるわたし
教会にさまざまな想いを吐露しにやってくる人たちと、話していて感じることがある。それは、彼ら彼女らは重く厚くなり過ぎ、持て余している自己を、誰かと話すことをとおして、軽く薄くしようとしているのではないかということである。
「世界にたった一人しかいない、かけがえのない自分」。そのような自意識はどこからやってくるのか。古代の人たちにも自己への意識はあったはずだ。たとえば聖書を読む限り、ネガティヴな感情に限っても、そこにはいつの時代にも普遍的な苦悩が描かれている。ただし、それを読むわたしたちは現代人であることもまた忘れてはならない。たしかに古代人も悩み苦しんだ。そしてその語彙もわたしたちと共通するものがある。だが、その悩み方や苦しみ方が、わたしたちとまったく同じだというわけではない。
わたしたちは自然と超自然という言葉で宗教の世界を語ったりする。わたしたちが日常的に体験している自然界である。ここでいう自然は、なにも山や海のような自然だけを言うのではない。都会の雑踏であってもスマートフォンをうっかり落とせば、それは地面に落ちる。引力があるからだ。引力は自然現象である。これが、ここで言う自然である。一方で、もしも落としかけたスマートフォンを空中で静止させたり、糸もないのにヨーヨーのように空中から手へと引き戻すことができたりするなら、それは超自然現象である。そのようなことは自然界には決して起こり得ないことだからだ。だが古代の人たちは、そうは思っていなかった。
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