わたしの内心、そして他人の内心を詮索しないこと
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。」
そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
ルカによる福音書3章(新共同訳)より抜粋
わたしたちは心というものに信を置き過ぎているのかもしれない。「ありのままのわたし」というときに、たいていの人はほぼ「ありのままの心の状態のわたし」について言っている。「ありのままのからだのわたし」、つまり裸という意味でそれを言うことは、ほぼないと思われる。というのも、一切の衣類を身に纏わないで人前に出るなどということは非現実的だからだ。しかし「ありのままの心の状態」というのであれば、服装や髪型、化粧がなんであれ、ようは心の持ちようとしてありのままかどうかのみが問われているのだから、問題は一見シンプルである。
だが、実際にはそれは単純なことではない。「ありのままの心」というものが、いったいどんな心の状態を指すのか。誰かに激しい憎しみを抱いている人が、「無理に抑える必要はない。この憎しみこそが、ありのままのほんとうのわたしの気持ちだ」と思ったとする。たしかに一理ある。しかしまたその人は、次のようにも思う。「こんなにいつまでも憎悪の炎を燃やし続けているのは、わたしらしくない。もともとのわたしは、もっとおだやかで、やさしい心を持っていたはずだ」と。この場合、真の意味で「ありのまま」なのは、どちらの状態なのか。怒りか。それとも、やさしさか。
つまり「ありのままの状態である心」は、どの視点から見ているかによってちがうということである。怒りの渦中にありながら「怒っちゃいけない、我慢するんだ」と抑え込んでいる文脈では、怒りこそが本音であり、ありのままの感情である。一方でもっと広い視点、怒りだす以前からの自分自身を考えてみれば、ほんらいはこれほど怒るほうがおかしい、もともとはこんなに怒る自分ではなかった、というのが真実なのである。自分というものをどれくらいの時間幅で見るかだけでも「ありのままの状態の心」といったものの姿は異なるのだ。
ところで冒頭に洗礼者ヨハネと、彼のもとに集まった群衆とのやりとりを要約的に抜粋した。ヨハネは恐ろしげな表現でもって、神による最期の審判を預言する。それを真面目に受けとった人々は「じゃあ、どうすれば悔い改めたことになるんですか⁉」と質問したのだ。そして、これが大事なことなのだが、現代では反省とほとんど同一視されている「悔い改め」ということについて、ヨハネは内心の話には持って行かないのである。彼にとっては悔い改めにふさわしい実を結ぶかどうか、つまり人々が実際にどんな行動をとるかこそが大事なのだ。人々が「心のなかで」何を想いながら行動しているのかは、彼の関知するところではないのである。
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