ご利益を切望する

'イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。 ' マタイによる福音書 15:21-31 新共同訳

この、カナンの女というのは、イスラエルの人々から見て外国人なんですね。言葉は通じたのでしょうけれども。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というイエスの言葉、なんとなく聞けば冷淡に聞こえます。しかしリアルだなあとも思います。洗礼者ヨハネにしても、彼のあとに活動を始めたイエスにしても、イスラエルの人々の信仰の文脈にあります。こんにちの言葉で言えばユダヤ人の、ユダヤ教の信仰の枠内での言葉や行為として、イエスは活動をしていたのです(当時の人々は現代のような意味での人種や民族などの区別や「~教」という宗教の信者という自覚を持っていたわけではありません)。パウロがユダヤ人ではないさまざまな地域の人々にイエス・キリストについて語り広めていったのは、もう少し後の時代です。

では、パウロ以前は外国の人々とまったく無縁だったのか。そうではなかったことが、今日の聖書箇所からよく分かります。イスラエルだからといって、いわゆるユダヤ人だけしか住んでいなかったわけではない。地理的に流通の要衝でもあり、当時はローマ帝国の属州となっていたイスラエルには、さまざまな出自の人たち、さまざまな信仰のありかたが存在していました。カナンの女と呼ばれている女性もその一人でしょう。

そしてこの人の信仰、目を見張るものがありました。素直に読めば、イエスをその信仰の迫力で言い負かしているとしか思えません。イエスが驚いて思わず語ったのであろう、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」の「立派」とは「大きい」ということです。イエスは、あなたの信仰は偉大だと絶賛しているのです。これはしてやられた、あなたの信仰はなんてすごいんだと。イエスはこの女性と遭遇して、考え方が変わるほどのインパクトを受けたのです。イエスはこの女性から学んだとさえいえます。イエスの視野が彼女によって、イスラエルの人々のみから、もっと世界の人々へと、ぐっと広げられた。だからイエスは腹の底から感動して、あふれるように祈ったのでしょう。「あなたの願いどおりになるように」と。それで、この女性の娘は治りました。

こんにちではカルトや自己啓発を信じる人、サロンに夢中になる人などが、馬鹿にされがちです。なんであんなものを信じるんだと。分かりやすいご利益に騙されて、幼稚だと。たしかに、そうした人々の弱みにつけこんで洗脳したり、お金や生活のすべてを奪い取る、カルト的な組織は間違っています。では、藁にも縋る思いで救いを求める人は、愚かなのか。わたしたちはそれを嗤えるほど、なんのご利益も一切求めない自律した生活を送り、あるいは無償の信仰を信じられるほどに、成人しているのでしょうか。

カナンの女は素直です。娘の病気が治ってほしい。神なら治せるはずだ、いいやきっと治せる!イエスは評判になっている。神の代理人かもしれない。だったら、イエスに頼めば治してくれるかも!娘の病気が治るというご利益を、彼女は真剣に求めてイエスに迫っているのです。イエスの弟子に阻まれ、さらにはイエス自身から二度も拒まれても、イエスを言い負かすほどの気迫で。

むしろわたしたちは問われます。これほど真剣に、大真面目に、イエス・キリストを問い詰めるほどに、神のご利益すなわち恵みを求めているだろうか。願っても実現しないことが怖いから、どこかで先回りして諦めて、「いや、無理ならいいんですけど」的な、「大人の対応」と呼ばれるような、冷めた祈りや信仰をしていないだろうか。

イエスさえをも驚嘆させてしまうような、こんな「ご利益信仰」を、持ってみたいとは思いませんか。

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