口伝

牧師のわたしでも、知人の仏式の葬儀に参列させていただくこともある。御通夜に出ると、参列者が互いにしみじみと故人の想い出話をしているのを見かける。その話の内容は明らかに、故人の生前には決して語られることのなかった、否、そもそも語り得なかったことである。なぜなら、その人が亡くなり、その人生が閉じた今だからこそ、その人の生前のあの言葉、あの行為の意味が、遺された人に迫ってくるからである。だからわたしたちは、今にして思えばこうだったのかもしれないと語る。その人が元気だったころには気にもとめなかったような、どうでもよかった、そもそも忘れていたような出来事が光を放ち始め、重要な意味を持つようになる。

先日、ある老牧師の説教を聴いていた。彼が60年近く昔の話をしていたときのこと。「そのとき会場は、しーんっ、と静まり返り」と。「しーんっ」という言葉に、その話を聴いていた我々が強い静寂に包まれた。そこから60年前の牧師(故人)の説教の引用が始まる。その口調はもはや語り手のそれではなく、60年前のその人そのものであった。我々聴衆はいわば、60年前にタイムスリップしていた。わたしの眼前に、60年前の会堂そして人間たちが開けた。

ああ、これが伝承というものかとわたしは思った。聖書のなかの、とくに福音書や使徒言行録は、もともと口伝えで言い広められた(あるいは詠われた)。それが次第に文章化され、編集されていったものである。その、文字化される前の段階。人々がイエスの、あるいはペトロやパウロの想い出を口頭で語っていた頃。彼らはたんに救いについての教義のみ伝えていただけではなかったはずだ。「イエス先生はな、あのとき、息をな、こう、すうっ、と吸い込んで。それから一気に吐き出すようにこう言ったもんだよ」とか。今日「福音」と言われる内容を、イエスの口真似さえしながら語ったかもしれない。

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