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絶望と幸せと安心_100日後にZINEをつくる、33日目

最近、死にたい人が身の周りにたくさんいる。
楽しいことがなにもないから死にたい、
老後のお金が尽きることを予感して死にたい、
未来に不安しかないから死にたい。


まだ10代の頃のわたしは、周りの大人は全員敵で、だれともつながれない深海みたいな世界で生きてた。
自分の声はだれにも届かないのに、耳をふさいでも誰かの泣き叫ぶ声が聞こえてくる、全く自分の力が及ばない毎日に絶望していた。

何もかもに舌打ちして、唾を吐いて、「いつ死んでもいいし」って口ぐせのように言っていても「もう死にたい」って言うことは怖かった。
「死のう」と決心して自分を傷つけても死にきれない意気地のなさを誰かに知られるのが恥ずかしくて、死のうとした自分を隠した。

昨日「どんな人といれば自分が幸せであれるか」という話をする機会をもって気づいたこと。絶望している時には誰かの幸せが全く見えないってこと。
たしかに当時のわたしのまわりには幸せな人がだれもいなかった。のではなく、みんな不幸を生きているように見えていた。
母に、父に、妹に「幸せ」が全く見えないことに、わたしは絶望してたのか。

でも、どんなに絶望してたって、底に「いる」ことでそのうちにこんな自分にも「いられる力」があるってことに気がつく。
慣れ、退屈、飽きるって感情は、こうやって命を救うためにはたらく。
その力を感じられたときに無力さを許せるようになったんだ、わたしは。

ほんとはあの頃不幸だったみんなの心のなかにも、それぞれの願いや思い描く幸せはあったはず。
子どもで未熟だったわたしにそれが見えなかったことは仕方ない。
そんなの大人が教えてくれたらよかったんだって大人になったわたしは思う。

しかし幸いあの井戸の底から這いあがってこれたわたしは、今が底でないって事実だけで「幸せである」がデフォルトになってる。

だから死にたいきもちをわたしに伝えてくれる人には、わたしのハードルの低い幸せをすっくと見せていようと思う。

みんな死にたいくらい辛いのに、それでも身体を持続させることのできる命の強さ。
死にたいくらい「つらい、不安、怖い」って誰かに伝えることのできる、その命の力強さを、わたしは信じる。


追記:
「幸せ」の概念なんてものは人によってそれぞれ異なる、なんてことはわかっている上で、わたし自身の幸せとは限りなく「安心」に近いもの。
生きていく前提に安心がなければ、生命は本当の意味で自分を満たす選択をできない。
やっかいなことは、物理的な充足だけでは人は安心できないということ。
こころが作り出す不安ほど自分を脅かすものはない。

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