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発言者の責任_100日後にZINEをつくる、74日目

朝ごはんの片付けをしていると、ニュースを眺めていた息子に突然言われる。

「ママさあ、40才は若くない!って言ってるけど、50になったら、40は若い!って言うよ。」

うん。その通りですね。

わたしは励まされたのか。
老いを言い訳にするなと喝を入れられたのか。
息子の中にも色んな想いが渦巻いていて、母であってもそれはわからない。

子どもからの言葉は、時に天からのメッセージのように胸にすとんと落ちる。
わたしも子どもたちのように、どう思われたいとか、こう感じさせたい、など考えずに言葉を発していきたい。

そもそも「言葉」とは、誰のものなのか。
わたしが発した言葉を、どう解釈して受け取るかは相手の自由なのか。

こんなやりとりがあった。

自分の都合が悪くなると、いつも「もういい」って話を打ち切るけど、それって結局、わたしの言葉は何もあなたに伝わらないよね

ー「なにも伝わっていない」って言うってことは、要するに「俺がなにも努力していない」って決めつけてんだな?

そんなこと言ってないでしょ

ー 俺がそう受け取ったってことは、そーゆー意味になるだろうが!

誰だよ、こんな何様野郎を夫に選んだバカタレは!と腹を立てる自分は置いておき、やりとりを文字にしてみると気づく。
これって、典型的なSNSの炎上プレイじゃないか。
うーん、面白い。

「何もあなたに伝わらない」という文の主語は「I(私)」であり、そこに意味を込めるのは、自分の役目だと思っていた。
だがしかし、彼の世界では違うらしい。
そして彼に限らず、場合によってはわたしも同じことをしているかもしれない。

例えば、ある家で食事中に子どもが「このご飯美味しくない」と言った場合。
もし母が「わたしに母親失格って言ってるの?」って怒りだしたら、子どもは当然「そんなことは言ってない」と言うだろう。
しかしその時、母の頭の中で「ご飯が美味しくない→料理が下手→母は料理上手であるべき→自分は母親として失格」という論理が展開される様子も容易に想像できてしまう。

言葉の意味は、どこまで自分が意味を決めることが可能なのか。
送り手が「そのような意味ではない」と言っても、受け手が「あなたの言葉で傷つきました」と言う場合。
どこまでが発言者の責任になるのだろうか。

投げ手が投球をミスり、デッドボールになってしまう場合と、受け手がからだをねじって「わざと」デッドボールにする場合。
この2パターンはどちらとも、投げ手の意図は相手に伝わっている。
後者の当たり屋の場合でも、受け手には「どんなボールであるか」が、わざとぶつかれる程度に見えている。

ややこしくなるのは、受け手がボールをキャッチする時にからだをねじるクセが無自覚にある場合。もしくは、そもそもボールをキャッチする方法を知らない場合。

コミュニケーションにおいては、言葉を発する側が「どんな相手でも受け取れる投げ方」からはじめなければいけないのか。

先のやりとりの後のつづきをほんの少し。

俺がイライラしだしたら話なんて聞けなくなるってことくらい分かってるだろーが。何年一緒にいるんだよ、そんなことも分からねーのか?

その場においては、「その台詞、そっくりそのままお返ししますが。」としか思わなかった。

しかしよく考えてみると、グローブを捨て、背中も向けている相手にボールを投げつけまくったら、それは暴力になってしまう。
やはり、キャッチできないとわかっている相手に言葉を投げる方が悪いのだろうか。

「それでも自分の気持ちを伝えたい」と思うことは、しょせん投げる側のエゴなのだろうか。

思えばちょうど一年前の年末年始も、同じようなことで心をざわざわさせていた。
同じことが繰り返され、同じく不快になるのであれば、これはきっとわたし自身の問題だ。

「伝えること」「受け取らせようとすること」「言葉の意図にどこまで責任が発生するか」について、今年は解像度を上げていきたい。

そしてやっぱり「そんなつもりで言ったんじゃないよ」を受け取ってもらえないことはとても悲しいと実感したから、誰かの「誤解です」は、腹が立っていても受け取る努力をする。

なんだか自分がとてもいい人のような気がしてきて不安になる。
が、自分は、いらなくなった瞬間に捨てることを躊躇しない人間だ、ということを思い出して、少し安堵。



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