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『羅生門』(1950)映画館と観客

とある事情から黒澤明『羅生門』(1950)を再見した。
1951年のヴェネチア国際映画祭において最高賞を受賞し、日本映画の力を知らしめた映画史に残る傑作であることは間違いない。
ただ、初見時にはあまり面白さがわからなかった。
色々調べてみてもどうも納得の行かないものが多かったのだが、2度目の鑑賞で、私の中で『羅生門』が何を描いていたのかという問いに対する私なりの答えを発見し、面白さがわかった。
その答えとは「観客の映画との向き合い方」を描いた作品であるというものだ。

OPから

この映画はオープニングクレジットから始まるが、ただスタッフ、キャストの名を見ているだけではいけない。
クレジットの背景では羅生門の部分部分を映したカットが連続する。
そしてクレジットが終わると荒廃した羅生門の全景を見せる。(図1参照)

図1:羅生門全景のカット

各パーツを組み合わせても、羅生門はすでに荒廃し、不完全なのである。
これは、この後語られる森雅之演じる武士・金沢武弘殺害事件に対する各々の証言を組み合わせても、出来事の全貌は見えないというこの映画の構造をOPで端的に示しているといえる。

この羅生門の全景を見せるカットはもう1つ重要な意味を持つ。
志村喬演じる杣売りと千秋実演じる旅法師がいる場所は四角形の吹き抜けであり、スクリーンの中にもう1つスクリーンがあるという二重構造になっている。(下人登場直前のカットが最もそれを実感できる。図2参照)
すなわち、羅生門は映画館なのである

図2:杣売りと旅法師

そしてこの映画館たる羅生門に上田吉二郎演じる下人が手前から登場する。(図3参照)
手前から登場したということは下人は観客であり、下人が羅生門に向かう一連のシークエンスは観客が映画館に向かうまでを表し、この映画館までの移動の比喩はもう一度繰り返される。

図3:手前から登場する下人

それ故に下人は杣売りと旅法師に対して物語について語ることを要求するのである。
下人は映画の中で「嘘でも話が面白けりゃそれでいい」といっており、このセリフは下人が観客であることに加え、観客のある種の性質を示している。

太陽を映す必要性

この『羅生門』という映画について調べると以下のような記述が出てくる。

光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。

Wikipedia羅生門(1950年の映画)より

単に新しいことをやろうとして意味もなく太陽を映し、光と影のコントラストを強調したのであればこの映画は映画史には残っていなかっただろう。
それをやる必要性があったということである。

この中で太陽を映すカットが含まれる杣売りが事件現場まで歩いて行くシークエンスはカットを割ってはいるもののかなり長く、移動をしっかり見せる必要性があったことがうかがえる。
この移動は陽の光が届かない嘘が成立する影の世界への移動である。
その移動の中で、光が徐々に遮られていくことを見せるために太陽を映す必要性が生まれた。(図4参照)

図4:遮られる太陽

そして、この嘘が成立しうる影の世界というのは、虚構である映画を見ている観客のいる映画館でもあるのだ。
映画館たる藪の中への移動を下人登場時よりもしっかりと見せることで杣売りに対して観客を同化させる。
すなわち、下人に加え、杣売り、そして一連の証言を杣売りとともに聞いた旅法師の3人は観客であり、物語の登場人物なのだ。

このシークエンスが先程述べた観客が映画館へと移動する2度目の比喩であり三重構造が完成する
一層目が観客が映画館へ行くこと、二層目が下人が羅生門へ行くこと、三層目が杣売りが藪の中へ行くことである。

小説『羅生門』と映画『羅生門』

この映画館を巡る三重構造に加え、映画全体の構造が原作である芥川龍之介の小説『羅生門』と逆の構造をとることでさらに物語の厚みを増している。
前田愛は著書の中で小説『羅生門』の構造を分析し、以下のように述べている。

『羅生門』のテクストから最小の物語の条件を抽出してみると、連続する3つの命題は次のように図式化することができるかもしれない。

命題Ⅰ 下人は盗賊になる決断を留保する
 ↓
命題Ⅱ 老婆の言動が下人の行動のモデルとして機能する
 ↓
命題Ⅲ 下人は盗賊になることを決断する

(中略)
命題Ⅱに相当する挿話は、3つの命題からなる〈最小の物語〉とある相同性を持っている。

前田愛『文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫、1993年)p191,193

すなわち、下人が盗賊になるまでの小説『羅生門』全体の物語の中には、相同性をもつ老婆が語る物語が含まれているということである。

大きな物語が全体の主題を示す小さな物語を内包させることで物語全体に厚みを出す手法はよく使用される。
近年の映画でこの構造が顕著なのは濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』(2021)であろう。
映画『羅生門』においては小説と逆の構造をとり、二層で描かれている3人の物語よりも三層で描かれる杣売りによって語られる物語のほうが比重として大きくなっている。
小説『羅生門』の構造を参照することで、この作品がただ単に羅生門という建物を登場させるためにその題名を使ったのではないことがわかり、橋本忍の脚本の巧さがある。

観客への問いかけと回答

検非違使による取り調べの場面は第三層に当たる物語の中で語られる物語である。
先程、嘘が成立する影の世界について言及したが、証言者たちはみな影のもとにあり、嘘が成立することを示している。(図5参照)

図5:取り調べを受ける多襄丸

そして、次々に登場する証言者たちはみなカメラを向いて証言し、それに対する検非違使の反応やセリフは一切存在しない。
すなわち、何が真実であるかを判断することは我々観客に委ねられているということだ。

もちろん真相は藪の中であるわけだが、繰り返されるこの場面こそ、この映画が我々観客に投げかけている問いに直結している。
嘘が成立する影の世界である映画館という空間の中で、観客は虚構たる物語(映画)をどこまで信用し、何を信じているのかという問いかけをこの映画は我々に投げかけている。
そのために下人や杣売りを映画館へと移動させ、観客と同じ状況に置き、何を信じればよいかを悩ませていたのである。

そして、この映画はこの問いに対してどのような回答を示したか。
赤子の登場がカギである。
赤子は純粋無垢の象徴であり、その赤子を杣売りが抱きかかえながら、羅生門をあとにする。(図6参照)

図6:羅生門をあとにする杣売り

すなわち、この映画が示す答えとは、観客は映画館という環境において虚構を虚構として純粋に受け入れていることである。この映画では太陽を映すというタブーだけではなく、映画館で語られる物語を虚構であると疑うタブーを犯そうとしている観客たちを羅生門のもとに集った3人によって描いているのだ。

映画『羅生門』は真相がはっきりしない猜疑心を生み出す物語を三層目によって描き、二層目において物語に対する観客の受容を描くことで、映画館において観客がどのように映画を捉えているのかを観客自身に客観視させた映画なのである。

映画を映画館でみること

ここまで読んでくださった方はおわかりかと思うが、私はこの映画を映画館以外の環境で観ることを想定していない。
なぜなら、1951年当時には動画配信サービス、DVD、VHSのようなものは存在していないからだ。
映画は映画館で見るものであった。
この映画は映画館で映画を観る観客を描いているため、映画館で観ることによって真の意味を持つ。
映画館という空間で映画と向き合うことを描いたこの作品は‘’映画とはなにか‘’が曖昧な現代においては1950年の公開当時よりも重要な意味を持つ作品になっていることは確かである。


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