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『スミス、都へ行く』(1939)②座らせること

先日、『スミス、都へ行く』を鳥という観点から分析した。
今回は今作において重要な運動である「座ること」と「立つこと」そして「座らせること」に焦点を当てて分析していきたい。
※2023/08/31追記


この映画はいかなる映画か

まず、この映画がいかなる映画であるかについて中村秀之氏は以下のように述べている。

『スミス都へ行く』とは、この青年(スミス)がいつまでその長身を垂直に保って声を発し続けていられるかを登場人物と映画館客全員で見守り続ける映画なのだ。

長谷正人 , 中村秀之『映画の政治学』,青弓社,2003,pp.133-134

つまり、この映画においては「立つこと」が非常に重要な運動になっている。
特に後半の議場のシーンにおいてはスミスが「立つこと」言い換えれば「座らないこと」が観客の興味の中心にあることはいうまでもない。

「座ること」

この映画における重要な「座ること」は2回ある。
1回目はスミスが初めて議事堂を訪れたときに、少年から議事堂について説明を受ける場面である。

少年の案内で席につくスミス

座ることによってスミスの目線は少年より下になる。
もちろん、立っている状態ではスミスの方が大きい。
これは、スミスが少年に教えを請う立場であるからだ。
スミスは素直に「座ること」を行う。
「座ること」によって自らの立場を下に置くことを厭わない人物なのである。

2回目においても同様にスミスは教えを請うために座る。
法案に関してサンダースから説明を受ける場面である。

サンダースから法案の説明を受けるスミス

少年の場面同様に教えを請う立場になるスミスの目線は「座ること」によってサンダースよりも下にある。
つまり、スミスという高身長の主人公を取り巻く「座ること」と「立つこと」は、彼自身の認識する権力関係に直結しており、「立つこと」は「座ること」に勝るのだ。

その後の法案制作の場面では立場が逆転しており、法案を制作するスミスは立っており、それを聞き取るサンダースは座っている。

法案制作をするスミスとサンダース

この「立つこと」と「座ること」の権力関係は「話すこと」と「聞くこと」の権力関係だと言うこともできる。
この映画で立っている人物と座っている人物が同時に画面上に存在する場合、立っている人物は「話すこと」が許可され、座っている人物は立っている人物の話を「聞くこと」になる。
これはのちに言及する議事堂の場面において顕著である。

「座らせること」

後半になると「座らせること」が登場する。
これをこの映画内で初めて行うのが新聞王ジム・テイラーである。
ジムはダムの不正を知ったスミスを懐柔しようと説得を試みる。
その際に手で指示をして、スミスを席に「座らせる」のだ。

スミスを座らせるジム

前述の通り、スミスは座ることを厭わない人物であるため、ここでは「座ること」を受け入れる。
ただ、このあとジムが裏で暗躍していることが明かされると、スミスは立ち上がる。
これは「座らせること」に対して抵抗し、「立つこと」によって「話すこと」の権力を得ようとするこの映画において重要な運動である。

立ち上がり主張を行うスミス

この映画においてスミスを演じるジェームズ・スチュアートの身長を超える登場人物は存在しない。
いわば、「立つこと」を行っている限り、スミスは何者にも負けることはないのである。
この場面でも、立つことで権力関係においてジムより上位にたったスミスは最終的にジムに勝利することを予見させる。

この次の場面でスミスは真相を確かめるためにペインの元を訪れる。
以下のカットでは次のような台詞が交わされる。

ペイン「まあ  かけたまえ」
スミス「それどころじゃない」

U-NEXT『スミス都へ行く』
ペインの元を訪れるスミス

ここでペインは「座らせること」をスミスによって拒絶される。
今まで座ることを素直に受け入れてきたスミスによってである。
この一連の流れはこの映画において最も重要な瞬間といえる
ペインはスミスとの権力関係において下位になってしまったのだ。
それ故に、ペインは机の上に座るのである。

机に座るペイン

拒絶によって座らざるを得なかったペインは、この時点で無意識に自らスミスに対して負けを認めている。
その後、スミスは決戦の場となる議場では、ペインやジムという悪に対しては「座ること」によって立場を下位に置くことをせず、「立つこと」によって「話すこと」の権力を保持するのである。

「座ること」②

ペインとジムの策略にハマり、失望したスミスはリンカーン記念堂を訪れひとり座り込んでしまう。
ここでスミスは彼らの権力には敵わないことを認識し、自ら「座ること」を選択する。

1人座るスミス

そこにサンダースが現れ、彼女もまた「座ること」を選択する。
議事堂でスミスが少年と目線を近づけたように。
「座ること」には「聞くこと」であると同時に「他者の立場になること」でもあるのだ。

「座ること」を行う2人

ここではサンダースがスミスの立場になっているわけだが、議員であるスミスに求められるのは、大衆の立場になることである。
ゆえにこの映画に登場する「人民の人民による人民のための政治」を掲げるリンカーンの像は「座ること」を行っているのである。
スミスはもう一度ここで「座ること」によって、大衆の視点を再度獲得し、変化をもたらされたサンダースに促され、スミスを「立つこと」を行う。
サンダースとともに去っていくスミスは「座ること」を行うリンカーン像に対して礼をする。
それは「座ること」の持つ「他者の立場になること」という力の存在に気づきを与えてくれたためである。
スミスは「座ること」と「立つこと」両者の意義を知り、抗議へと向かう。

「立つこと」

スミスは自身の除名処分とダムの計画に対して抗議するため、スミスは発言権を譲らず「立つこと」の継続を行う。
これによって「話すこと」の権力も同時にスミスは得ている。

立ち続け、話し続けるスミス

さらに、「座らせること」をスミスは行うのである。
スミスに対する抗議のために議場を出ていった他の議員たちを招集し、座らせる。

議員たちを招集し座らせるスミス

スミスは「立つこと」の継続によって議場を支配する。
スミスが立ち続けている限り、スミスはこの作品において最も強力な権力者となる。
(なぜなら、191cmのジェームズ・スチュアートを超える身長の持ち主はこの映画には存在しないからだ。)
ただ、スミスにも限界はある。
スミスが限界に達する直前に彼は、ペインの元へ向かう。
ペインは「座ること」によって「聞くこと」を行う立場であり、「他者の立場になること」ができるのである。

ペインに呼びかけるスミス

この呼びかけの直後にスミスは倒れてしまう。
その様子を見たペインは「立つこと」を行い、「話すこと」の権利を得る。
このペインの運動は決してスミスに対する抵抗ではなく、ジムに対する抵抗である。
スミスからペインへの「立つこと」の引き継ぎによって物語は終わる。
『スミス、都へ行く』という映画は「座ること」、「立つこと」、「座らせること」によって権力関係を描き出し、それらの引き継ぎによって幕を閉じるのである。

「立ち上がらせること」

リンカーン像

スミスを見守る存在としてのリンカーン像は座り続けている。
そしてリンカーン同様に常に座っているものがこの映画には参加している。
それは我々観客である。
田舎から出てきた1人の青年が腐敗した政治に立ち向かい、変化をもたらす様子を目の当たりにした我々観客は劇場を後にするために「立つこと」を行う。
議場でスミスに助言を行うサンダースのように。
自らの罪を告白するペインのように。
これはスミスが「立ち上がらせた」と言い換えてもいいかもしれない。
サンダースであり、ペインであり、リンカーンである我々観客が「立つこと」によってこの映画は完成するのだ。

追記にあたって

まず、この記事を読み、意見を述べてくれた先生と先輩には感謝を申し上げたい。
また、成城大学教授の木村達哉氏の『ハリウッド映画における三度の反復』という論文内の「1.3.古典的物語映画におけるシチュエーションの三度の反復」の項にて『スミス、都へ行く』を取り上げ、「座ること」の拒絶が3度繰り返されることについて言及されている。

https://www.seijo.ac.jp/education/falit/grant-book/jtmo4200000072xz-att/y001-031.pdf

この論文について知ったのは私が記事を書き上げた後のことであったが、誤解のないようにここで取り上げておく。


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