母と洗濯機
そのむかし、洗濯は当たり前に“手洗い”だった。
世のお母さんは、子供の世話に家の事など、忙しいがために、他の事に時間を割くなんてできなかったんだ。
いつからか洗濯機が発明され、母の仕事である”手洗い“はこの機械にお任せすることができるようになった。
母は、洗濯物の量と質を見極めて、適切な洗剤の量とボタンを押すという新しい仕事を担い、洗濯という仕事は『洗濯機と母』のチームによって行うものになった。
母はめでたく余暇を手に入れ、新たな仕事へ時間を割くことができるようになったわけだ。
ここで重要なのは、洗濯機に仕事を奪われたと嘆いた母親なんて、いなかったこと。
母しかできない、代替不能な事に時間を割けるようになった。これはいい事だ。
洗濯機は敵か
良いことのはずなのだが、現在に置き換えてみると、洗濯機のような新しいテクノロジーについて必要以上に不安視している声がある。
確かに、Uberによってタクシー会社は苦しみ、Amazonによって本屋は潰れる。
洗濯板は、寂しい思いをしたのだろうか。
洗濯板を製造していた会社、そこに所属していた従業員達は、寂しい思いをしたのだろうか。
一生懸命に洗濯板の研究を重ね、改善を繰り返し、営業して売った人にとっては洗濯機はとても憎い存在だったかもしれない。
でも、洗濯板が、洗濯の手間を少しでも改善したいという思いから生まれた製品だったとしたら、更に便利な商品が出てくるというのはこの上ない感動と尊敬の気持ちを抱くだろう。
洗濯板を開発した人は、どんな気持ちだったんだろうか。
全ての母に自由な時間を生んだこの製品の誕生を素直に喜び、家電メーカーに対して称賛を与えられたのだろうか。
もしかしたら、近い将来あなたの生業が更に便利なサービスや製品で塗り替えられるかもしれない。
その時、
「こんな世の中はおかしい。昔に戻るべきだ。」と過去にしがみつくのか、
「おぉーすげぇ。こんな便利な世の中になるのか。じゃあさ、俺はこんな風に手伝うよ。もっとこうしたら便利になるよ。」と手を取りあって肯定的に歩むのか。
後者は、本質的な芯をたずさえているからこその思考。
もし、ユーザーが自分の母親だったら、どっちが喜ぶのか考えると、視界がクリアになる。
ユーザーが、自分の周りの人が、世界中の人や物が大切な人のように思えたら、多分だけど、良い方向にしかいかない。
サービスを練る時、大切な人を思って作業にあたる。
動機は、善であるべきだ。
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