連続ブログ小説「南無さん」第十一話

 両の乳首から抜け落ちずに伸び続けた一本ずつの長い長い乳毛を胸骨のあたりで蝶々結びにして愛でていた南無さんが、往来でつまずいた拍子にすべてを無に帰してからすでに一月が経った。南無さんは己が蝶よ花よと育て上げた乳毛が道半ばにして千切れてしまったことでショックのあまりその場に倒れこんだままその月日を過ごしていたのであるが(道半ばとは言うが終にはどこへ向かおうとしていたのかは南無さんのみぞ知ることである)、蝶々乳毛は南無さんの両の乳首を離れる際にその毛根を連れ立っていったため、往来には南無さんの乳より流れ出る血のせせらぎができあがっていた。幾たびの暁を超えて血は流れ続ける。一月と言っては見たが実のところもう何年が経ったのか南無さんにはわからなかった。これは、南無さんを観測し続ける存在もまたなかったので、実際いつから南無さんがそこで乳から血を流しているのかは誰にも知れなかったのである。当然、南無さんの涙が枯れるほうが、ずっと早かった。

 永劫に続く愛別離苦の最中にあって、南無さんの目に映るのは蝶々乳毛が飛び交う幻である。愛する者との別れはそれはそれは苦しいことだがすべては宇宙の導きであるからして、いつかまた巡りくるその時には自分もかの蝶々乳毛と共に菊門の花畑を欣喜雀躍と飛び回っているに相違ない。なんぞ悲しむことのある。そんなことを考えながら南無さんも一匹の蝶々乳毛となって幻の中で互いの尻を追いかけ回していた。前述のとおり蝶々乳毛には左右に毛根がぶら下がっているわけだが、どうもこれが蝶々の触覚の先端と様相を同じくしているため妄想には勝手が良かったらしい。実のところ南無さんはかように現実と見紛うほどに幻覚を快く喫していたため、今もって地に伏したままなのである。彼の時間はそのときに止まったままなので、畢竟乳の傷は癒えることなく血を流し続けていたわけである。あるいは幻の中で蝶々乳毛は菊門の密を吸うておったものだから、その吸うた分の密がこうして乳から流れ出ているのかもしれなかった。やがて南無さんの体には苔がむしはじめるのだが、彼は一向に起き上がっては来なかった。

 ここが後に某教にとっての聖地となることは言うまでもない。

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