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ブレードランナー1982/フィクションとリアリティ

あらすじ

2019年のLA。環境汚染の為人類は宇宙へと進出し、惑星移住が可能になった。人類は未開の惑星で危険な作業に従事させるため「レプリカント」というアンドロイドを作り、過酷な環境で奴隷のように酷使していた。レプリカントは外見が人間そっくりだが、感情というものを持たない人造人間。しかし、製造後数年たつと感情が発生する為、4年の寿命をプログラムされていた。
ある日、レプリカントたちが謀反を起こし、ロサンゼルスにネクサス6型という男女4体が植民地惑星から逃亡してきた彼らを抹殺する特任捜査官“ブレードランナー”のデッカードは追跡を開始する。感情を持ち、自由を求めて人類へ戦いを挑んだレプリカントとの戦いが始まる。

ブレードランナーというと映画マニアにとって切っても切り離せない作品である。ストーリーはあまりにも描かれていない部分が多く初見では本筋を理解することが難しい。しかしそれでもSFの金字塔と言われているのは綿密に構成された世界観と余白の残るストーリーがたくさんの示唆を産みカルト的な人気を博したからだと言える。

ブレードランナーが持つカルト性


私がこの作品を初めて見たのは中学生の時だった。当時は余白の多いストーリーとセリフが少なく登場人物の動機読みながら行動を追って行く作品であるため、レプリカントたちが何を求めて行動しているのかいまいち理解できなかった。そしてアメコミのような勧善懲悪ではなく主人公が善人ではないというところも大きかった。
ブレードランナー以前のSFは壮大で荒唐無稽なアドベンチャーが多いが、本作品は終始暗い映像、酸性雨の降る夜の陰鬱な街、そして一見善良な市民の女性を容赦無く銃殺するというショッキングなストーリーである。レプリカントのリーダーであるロイとの終盤の死闘、そしてデッカードを救い4年の寿命を迎える。主人公はいわゆるヒーロー像と乖離しており、主人公の能動的な行動によってカタルシスを得られるわけではない。「敵」であるレプリカントに感情移入することによりもたらされるカタルシスは受け手の解釈や理解度により、その解像度にグラデーションが生まれる。このような作品はマス的に受け入れられにくいが、見れば見るほど示唆に富み「自分だけのブレードランナー」という感覚を生み出していくのだろう。
そして、非現実性の対抗としてリアリティーのある世界観が意識され、情景描写に至っても人間と同じ感情を持っているにも関わらず「老化」が早くプログラムされていることへの反発を物語の主軸としているサイバーパンク的な思想を持つ作品であり、現在から見ればレトロフューチャーである舞台も1982年から分岐する根源を共有したif世界として私たちの社会情勢や文化と重ね合わせずにはいられないことも世界中の人々の心を今も掴み続けている要因にも思う。

フィクションが現実を牽引する


現在の渋谷や新宿歌舞伎町の街並みはビル一面を覆う広告、3Dに見えるようにデザインされたデジタルサイネージ、統一性のない高層ビル群、常にどこかで工事がなされているという点で40年前に夢想されたフィクションの街並みそのものと言える。いつも何処かで工事が行われており統一感を持たない街は常に美しくならない反芸術的な歪曲した美徳を感じる。人々の理想を具現化させたミクロマーケティングによる施設が乱立した街並みは全体としての醜美を問うていない。
手段が雑多に用意された現代社会において人間は他者からの承認欲求を得ることを幸せの意味と捉えているように思う。その最たる例が「インスタ映え」だ。経験の幅や価値観の違いがあれど一律に設定された経験や体験のリソースを写真や動画で編集・加工し事実を曲解した「フィクション」を公開し他者からの承認欲求を満たすことを目的とする。
私は目的ありきで渋谷や新宿に足を運ぶことはあるが、何気なしに行くことは滅多にない。非日常に溢れ切り取り方によってはいくらでも承認欲求が満たせる街は、目的がない時には「何かあるようで何もない凡庸な街」に成り下がる。この感覚が示すことは諦観し冷めている現実よりも喜怒哀楽に溢れエモーショナルなフィクションの方が圧倒的に人間的であり、感情を揺さぶる偽物の価値観に現実が牽引されていることである。
4年という寿命を持つレプリカントはその恐怖が故に、無感情で抑揚のない諦観したデッカードに比べ遥かに人間らしさを持つブレードランナーの世界観はそういった社会の側面を描いているのではないだろうか。


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