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谷川由里子『サワーマッシュ』評:風の霊

『サワーマッシュ』は間違いなく風属性の歌集だ。歌集の色が爽やかなミントグリーンだからとか、風の歌が多いからとか、そういうことはいったん脇に置いてほしい。

風は希薄であるが、風には風のアイデンティティがあるようだ。ところで、一般に短歌の場で人に会うときは「あなたは誰ですか?」と問われるもので、自分の由緒が書かれた歌集があるととても便利だ。そうして歌集にはどこ出身の誰で、どんな生活をしています、と書かれるのだろう。それも悪いことではない。しかし『サワーマッシュ』では、社会的に誰であるか、よりも、なりたいものやそうあって欲しい空間が一貫して描かれているように見える。なんとなく都市にいること、恋人のような存在がいることなどは、名刺に刻まれた情報としては「淡い」のでしょう。それも悪いことではない。

さて、風が吹くとうれしい。風とは? 空気が運動エネルギーを伴ったものです。理性ではそう説明するが、誰しも心のどこかでは、風に霊性を感じているのではないだろうか。

風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。(p.15)
きみだけを守る空気があるでしょう お土産にしたくなる、空気だ(p.79)
風で、日めくりカレンダーめくってごらん 新しい月がみえるよ(p.104)

谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社、二〇二一)

一首目は三句目欠落である。短歌が五句三十一音の詩型であることを一度忘れて、句読点に沿って「風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。」と発話してみる。やはり短歌は五句三十一音の詩型であることは忘れられない。しかしこの歌はどことなく短歌である。おそらく「もう一度言う。」が七音であるためだろう。私の定型感覚もとてもいい加減らしい。それでいいだろう。厳格主義ほど疲れるものはない。

話しかけたら風がついてくるならば、止まっているときにも風はそこにあるのだろう。二首目の「空気」は守護霊のようでもあるが、守護霊をお持ち帰りされたら本人はきっと大変なことになる。この歌の嬉しそうな雰囲気はそれこそ「空気」によって成立している。
機嫌の良さという観点からは二首目と三首目にも共通するものがある。「風」をつかって「新しい月」が見える。月末だったのだろう。しかし「新しい月」が見えた。このように言い証すことは、まさに天啓である。

ひとつ断っておくと、いま私はキリスト教的な用語をもとに、『サワーマッシュ』における超自然的なものへの希求を考えている。が、そのことは、歌集をキリスト教的に位置づけようとすることを意味しない。アメリカの牧師/活動家であるオサジェフォ・ウフル・セイクウは、『urbansouls』(新教出版、二〇二二)のなかで、ヒップホップをとりまく活動を「霊的だが、宗教的でない」実践として位置づけていた。セイクウは同書を通して、ヒップホップの中から祈りと霊性を拾い上げていく。そのように『サワーマッシュ』は、宗教的でないではないが霊的なものを強く抱えている。風に見え隠れする霊性(スピリチュアリティ)、独特の韻律感覚、そして主体のご機嫌さ。相互の関係性を位置づけることは現段階では難しいものの、この三要素が『サワーマッシュ』の骨格であるように思う。

ところで、この歌集には章立ても連作もない。これは戸惑いの大きな形式だ。なにも慌てることはないと、まずは落ち着いてみたい。特定のテーマをもとにいくつかの短歌を並べた「短歌連作」という概念は、伊藤左千夫が一九〇二年に正岡子規の作品に対して与えるまで特に意識化されることがなかったものだ。さらに「連作」をひとつの完結した作品と見なし、その構成に意識を傾けるようになったのは戦後前衛短歌期からである(註)。連作の主題制作と新人賞の関係はこれから検討されなければならないが、その話はいったん置いておく。

少なくとも、連作概念以前であっても、歌集をめくればある程度のところで章立てをしたり、詞書きを付してそれぞれの短歌が文脈から外れないようにしたり、あるいは何らかの記号で短歌をひとまとめにする例をみることはできる。一切の区切りがなく、詞書きもなく、短歌だけが並べられている歌集はあまり見たことがない。この構成をどのように理解すればいいのだろう。

はんこ・カギ 看板が顔を出している夏の道から遠ざかるだけ(p.8)
八月は羽毛布団の上で寝た 九月、十月、だんだん潜る(p.87)
お鍋できたよって よ。に力が入る よ、によって持ち上がる(p.101)
友だちに会いたい 会って野ざらしの畳の上で花見がしたい(p.135)

谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社、二〇二一)

単語を拾うと、涼しげな夏がだいぶ長らくつづいたあと、冬と春の歌が配列されている。季節のめぐりはおそらく一周だけだ。「はんこ・かぎ」の歌は、最初にハンコと鍵を思い浮かべてしまうが、直後に看板だと認識を改めなければならない点がおもしろい。「お鍋」の歌も、はじめ語気の強い「よ」がテーブルに置くときの「よ」かそれ以外かわからないところにはじまり、持ち上がるときのそれと意味づけされる。こうした認識の修正は歌の読解によくない負荷をかけることもある。しかし『サワーマッシュ』では、何気ない事象にふしぎな解釈を与えることで、読者の認識を変動させることにたびたび成功している。

閑話休題、問題は歌集の構造であった。もっとも、構造を考えるのに季節の流れはあまり役に立ちそうにない。もしかすると、『サワーマッシュ』に強い構成意識を見いだそうとするのはあまりよい試みではないのかもしれない。巨大な風、たとえば偏西風は、どこでも偏西風で、どこでも強く西から東へ吹いている。もちろん、気象条件によって偏西風の印象が違うことも言い添えておく。そうした性質を歌集に見出すことはできないだろうか。偏西風は季節に依らない。そのように、帯文にあるように、「ただただ」「ご機嫌な毎日」が歌集には満ちている。

ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ いい天気だねー おばけは言います(p.53)
お土産のサブレはきっとその土地の空気を持ってきたならいいね(p.135)

谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社、二〇二一)

お土産はできればその土地にしかないなにかが望ましい。そうして、私たちが些細な不機嫌にいたる回路を、「土地の空気」はうまく遮断してみせる。「おばけ」のほうは、実際に会うと不機嫌どころではなく戦慄してしまうはずだ。悪夢の世界も上機嫌に書き換えられている。

ずっと月みてるとまるで月になる ドゥッカ・ドゥ・ドゥ・ドゥッカ・ドゥ・ドゥ(p.4)
月がいちばんポケットに入れたいものだかって月に聞かせてから寝る(p.153)

谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社、二〇二一)

歌集のはじめとおわりの歌である。こうしてみると、リズミカルな「ドゥッカ・ドゥ・ドゥ」は、上機嫌な霊に満ちた歌の世界を始動させるための呪文だったのかもしれないと思う。そして主体はおわりの歌でもその世界観を月にささやきかけている。呪文は終わらない。歌が気持ちを書き換えていく力は、きっといまも、歌集から溢れ出しているのだ。ドゥッカ・ドゥ・ドゥ、ドゥッカ・ドゥ・ドゥ……。

(註)この過程に触れた文献は多いが、収蔵図書館も多く手にとりやすいものとしては、角川『短歌』一九八六年二月号(三三巻二号)を挙げたい。「連作を考える〈今、何故連作が必要か〉」と題した特集が組まれている。

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