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うれしいから、かなしい

そんなことはないはずなのに、なぜかそうなる。人生にはそういう、よくわからないことがある。

満たされてしまうと、その余韻に浸りきる前に、満たされないなにかがやってきてしまう。いっそ、終わるのがこわいならはじめなければいいと思っても、そんな単純なことではない。そんなどうしようもなさを感じた日は、決まって呼吸が浅くなる。

「夜になるとさ。かってに涙がでてくるの」
昔、3個上の彼女にそう告白されたことがある。
中央線沿いに建つカビ臭いホテルの部屋は、ひとつしかない窓から射し込むネオンの灯りだけで、じんわりと照らされていた。
僕の左腕でうずくまっている彼女の顔は見えなくて、ただ、僕に絡ませた足はいつも通りなめらかだった。

正解の返事がわからず、僕はその代わりに彼女の腰をやさしく抱き寄せた。髪の香りがふわりと、鼻をかすめた。
「うれしいからさ。かなしい」
彼女は、特に返事を待つわけでもなく、たしかにそう言った。

どうしようもないことをどうにかできるのが大人だと思っていた。
でも、いざ大人になってみても、全然そんなことはなかった。
僕と彼女は、許されなかった。


あれからもう何年も経ったけど、彼女はいまだに泣いている夜があるのかもしれない。そうであって欲しくないと思いつつ、そうあって欲しいと願ってしまう自分もいる。
僕は彼女のことを、うまく忘れることができてないのだと思う。

「ぱぱーごはんだよー」
書斎のドアの向こうで、きゃあきゃあとした声が僕を呼んだ。
屈託のない声だ。おそらくオニオンスープの香りが、遠くから僕の鼻をかすめた。僕はなにも、不幸なことはない。だけど不幸ではければしあわせなのかは、まだわからない。

リモコンで書斎の電気を消す。束の間の静寂に、窓から廊下の街灯がやんわりと射し込む。
あの時の彼女の気持ちが、今なら少しだけ、わかるような気がする。

僕もきっと、おなじだよ。

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