木村秋則さんというすごい人①

(※奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)より)
(★ネタバレ含みます!めちゃくちゃ感動するので直接本や映画を読みたい方は見ないでください!)

※以下、本の前半の内容を短文化した内容となってます。※


17世紀頃の元々のリンゴは小さく小振りで甘味も少なかった。
19世紀に多品種との配合にてより美味しいリンゴを作れるようになり、それに伴って害虫が増え、リンゴを守るために農薬が撒かれるようになった。

現代のリンゴは農薬を撒かないと虫に食べられてしまう。

農薬を使わないと育たないのは、リンゴ農家にとって当たり前の事実なのだが木村さんはそれをやってのけた。


木村さんは婿養子。
元々の実家もリンゴ農家だったが、その頃はりんご農家やってれば裕福に暮らせることから、親からは「勉強をするとロクでもないことに手を出すから勉強は必要ない」と言われていた。

だが木村さんは、父親の目を盗んでは夜中、蝋燭の火を持って勉強をし、計算もできて、何にでも興味を持ち、幼少期に買ってもらったロボットを分解したり、青春時代にはバイクにアンプなどの分解して構造を学んでは自作したり、パソコンも自力で作ろうとしていたほど。(※作ろうとしたが、材料費が馬鹿にならないのが分かって諦めたと記述あり。)
昔から探究心が人一倍強かった。

木村さんは次男で、長男が家を継ぐ為、高校を出ると横浜へ上京する。

就職した工場ではその頃では珍しいコンピュータを使っていて、休日には近くのバイク屋でバイク弄りを楽しむ生活。

「楽しかった」とあるがここで木村さんはこう話した。

「興味はあったがコンピュータという物は単なる過去のデータを処理する機械であってそれが分かると私にとっては玩具にしか映らなかった。現代人は全部インターネット頼りで自分の頭で考えようとしない。答えは全てネットにあると思い込みすぎている。


その後、実家を継ぐはずの長男がパイロットになりたいとのことで自衛隊に入隊してしまったため呼び戻され、りんご農家の実家での暮らしを始める。

農業に未来を見出せず、はじめは気乗りしなかった木村さんだったが農業用トラクターに興味が湧いてトラクターが弄れるならとのことで、りんご農家兼百姓になった。

このあと、自衛隊をやめて舞い戻ってきた長男が家に戻ってきて、今の奥さんの家に婿養子としてお世話になることになる。

奥さんが、りんごを育てるために撒いてた農薬に弱いこともあったし、トウモロコシ栽培に変えようと思っていたところ、冬の間やる事がないからと本屋で誰からも買ってもらえないような高いところにあった、トラクター本を取ろうと棒キレで突いたところ一緒に偶然に落ちてきた本が、福岡正信さん著書の自然農法に関する本だった。

そこから探求心旺盛な木村さんは、無農薬自然農法実戦のためにありとあらゆることを試した。
醤油を撒いたり、粉わさびを撒いたり…お酢を撒いたり。

アメリカにリンゴが入ってきたのは17世紀頃。
ジョニー・アップルシードが活躍した19世紀初頭から半ばにかけてりんごの新品種が続々と生み出される。
その後、開国したばかりの東洋の島国にも伝えられて日本に入ってきたときにはもうりんごの赤い形をしていた。
日本に元々りんごはあったが、そこまで甘く美味しくなかったので観賞用だった。

初めてりんごに農薬が使われたのは明治44年。大正時代に入るまでに正しい使用方が確立して目覚ましい防除効果を発揮した。

そういう長い歴史の中で、甘く美味しいりんごを作るためにはどうしても農薬が必要だと歴史が証明しているのにもかかわらず、周囲の反対を押し切って、時代を逆行するように木村さんはりんごの無農薬栽培にのめり込んだ。

1年2年とリンゴが全く収穫できない期間を経て、3年目が過ぎたあたりからりんごの木にハダニがつかなくなった。
だがその頃には貯えが底をつき、娘も3人いたが学校のPTA会費も払えず、トラクターも売って、リンゴの木の差し押さえもされるところだった。

ただ、リンゴが実らなくても耐えれたのは、野菜や米を作ってしのぐ事ができたからだった。

ここでも木村さんは持ち前の探究心を発揮した。
稲の育成に関しては一般的に粥状にしたドロドロの土に植えるのが通常だが、木村さんは独自の実験をへて、粥状ではなく、田んぼの中に「土の塊」があった方が丈夫に稲が育つことを知り、今まで通りのやり方で収穫できてた倍ほどの収穫になるほどだった。

更に雑草の除去には、稲を育てる実験をした時の偶然から、芽をつつくことで雑草の芽が出なくなることに気付き、農薬は撒かず、「苗の間をバイクのチェーンを引きずって歩く」ことで解決させた。

土地はあった為、他の果物の育成にもトライし、「西洋梨やプラムは無農薬でできたのにリンゴができないわけがない」との思いから、絶対に諦めないと決意を新たにする。

その後もずっとリンゴは収穫できず。りんごの木は荒れ放題。
5年目でも無農薬栽培を進めていた木村さんは友人からも、近所の人からも、親戚からも罵られ「かまどけし」とまで言われた。

「家族のことを考えろ!」などとも言われ村八分に似た扱いをされるようになった。
そうなると人間は弱いもので本当にやめたほうが良いかもしれないと思うもの。
ふと『もうやめたほうが良いかな?』と娘に言うと『どうしてそんなことをいうの。嫌だ。何のためにこんなに貧乏をしているのか分からない』と勇気づけられた。夢はいつの間にか娘の夢になっていた。

それからはどうにか手立てはないかと考える日々。
「夜は先の事が心配なのか眠れないようで、毎朝夜明け前に布団を出ては、リンゴの収穫小屋にて空のカゴの上に座り、思い詰めていた」と奥さんの証言。

この頃は家族への当たりも強くなってしまい、「周囲から指摘されてるように自分の勝手で家族に苦労させてしまっている」という家族に対しての申し訳ない思いがストレスになっているのに、ぶつける相手もいないから、それを家族にぶつけてしまう始末。

5年目を迎えた木村さんのりんごの木は害虫の住処になっていた為、隣接する畑を所有してる人の心配の種にもなってしまっていて、悪い噂はよりいっそう強くなった。

こういった日々の中、奥さんはりんごの木に話しかける木村さんをみて気が振れたんではないかと思ったそうだが、木村さんは4つ持っているりんご畑の合計800本のりんごの木に対して『無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくても、実はならなくても良いから枯れないで下さい』と話しかけていたらしい。もうそれしか方法を思いつかないくらいに追い詰められていた。

本日はここまで

◎今日の呟き
全くここから無農薬でリンゴができるとは思えない流れです。
3日前から少しずつ読み進めていて、ちょうど今半分ほどにさしかかってるところです。
根性というか執念というか…そもそも奥さんが農薬に耐性がないがために、奥様への優しさからトウモロコシ畑を主体にしようとする優しさ。
そこからは福岡正信さんの本を見て無農薬に突っ走るわけですが…。
私自身もなかなか頑固なところはありますが、5年間も成果がでないと流石に周りに流されてしまいますね。
木村さんは、親戚に「木村の名を貶めた」と罵られたらしいのですが、義父(奥さんのお父さん)は味方になってくれたそうです。

こういう話を聞くと、「結局運が良かったんじゃない?」と思う方もいるかもしれませんが私は普段の仕事に取り組む姿勢や人柄が素晴らしかったからこそ成せたことだと思います。

人に魅せる為というよりも、自分に正直に誠意をもって生きているかどうか…人の中で生きていくのが得意な人には関係ない話かもしれませんが、「自分の中に答えがある」と思ってる内向的な性格の私は感動させられました。

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