三丁目で折り目正しく生きてます。
自分のことが、一番わからない。
半世紀生きてきたところで、
そこまできてもわからない自分に驚く。
だから人と話すのは楽しい。
私を客観的に見た印象を聞くと
大概驚きに満ち溢れてしまう。
しーちゃんとわかなん。
という若い女子と話した。
彼らは若いので話す言葉もスピーディでクリア。
そしてかしこいので
おばちゃんたちの、元に戻る的なエンドレス展開には
ならない。
一人はあることの沼にはまっている。
「沼に行ってきます」
と言って嬉々として沼に消えていった姿を一度だけ拝見したことがあった。
「・・・沼に潜っていくというのはこんなにもうれしいことなのか」
と、新鮮な気持ちでその背中を見送った。
そして
「わたしはこんなに何かに没頭したりすることなんてないなあ」
「沼にはまるってどんな気持ちなんだろう」
などと感心しながら
いわゆる「深淵」のほとりで
ときどき上がってくる彼女をお迎えしたりしていたのだった。
その二人から。特にしーちゃんから。
「まさのん、沼にいるじゃん」
と言われたのだった。
沼?
ぬま?
ヌマ?
濡魔?
抜麻?
「まさのんのイメージはさ、ずーーーーーーーーーーーっとハンドメイドという沼にいて、ときどき沼から頭をちょっぴり出して、外はどうなってるのかをちらっと見て、あとはまた沼に入っていくっていう感じ。自分の世界で生きていて、うらやましいなあというか、なんというか」
ハンドメイドという沼。
なぬ?それはどういうことか。
実はわたしはハンドメイドの世界が苦手だ。
そもそもハンドメイド界で聞こえてくる言葉が気持ちが悪い。
「お作りできます」「作らせていただきたいと思います」
「お作りしていただきます」
とか、とぐろ巻き言葉(造語)。
へりくだってるつもりなのか丁寧に言う最高級を狙ってるのか、
蛇だってそこまでとぐろ巻かねえよ。
と毒づきたくなる。
というのはまあ、横においといて、
最もいやなのは・・・
なぜなら
みんなうまいからだ!
なぜなら
みんなセンスがいいからだ!
というやっかみが、ある。これは、堂々と言うが、なんでこんなにかわいくできるの?とかもう、その腕やセンスに嫉妬するほどだ。
ハンドメイドの沼は嫌い。
深すぎて、しかも向こう岸がない。
だけど端から見たらわたしはハンドメイドの沼にいるらしい。
衝撃。
ジャイアント馬場の16文キックが当たる前に風圧で倒れる全日本プロレスの面々の顔が浮かぶ。
吸い寄せられるようにしてキックを全身で受け止める。
なぜ選手達が馬場さんのキックを受け止めるのか、わかる気がした。
これは、気持ちがよすぎる。
ドMの血が騒ぐ。
繰り返そう。
わたしは「ハンドメイドの沼」にいる。
たまに顔を出して、「へー。世の中こうなのね」と何の感想もなく、
沼に戻っていく。
そんな自分を全く知らずに私は生きてきた。
思えば小さな頃から、布が好きだったではないか。
無条件に布が好き。
いろいろな布を見ていくのが好き。
沼じゃん。
そして、題名となったキーワードが出てくる。
私は「三丁目」というところに住んでいる。
愛すべき家族にちょっかいを出し、ちょっかいを出され
観察をし、観察をされて生きている。
ついこの間までは家族の中の人気者1位の座をほしいままにしてきたが、
こども達は大きくなり、
それぞれの世界に行った。
順位付けのあった我が家族は、
全員が同列となった。
ああ、そうか。
全員それぞれの沼の中で、
楽しくお互いの沼を冒さず、
楽しく生きているのか。
この三丁目で。
折り目正しく。
時々ぽろりと出す我が家族の話は、
この三丁目で折り目正しく生きてきた軌跡だ。
思えば家族なんて沼のようなものだ。
外からは濁っていていよく見えない。
それぞれの生息に見合った温度と空間で
暮らしている。
それぞれの事情の中で社会とたまに接触しながら、
「三丁目で折り目正しく生きています」
健康診断をぶっちぎった妻に
「事務の人が大変だろ!無断で休むな!」
と言ったオット。
相手の行動や発言は、
自分の行動や発言よりもおかしいという信念を
お互いに強固にもちながら
「三丁目で折り目正しく生きています」
そんな我が家をどうぞよろしくお願いします。
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