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君を誇りに想う ありがとう


黒い小さな使者だと思った

4月のある日、東京都内の霊園にバイクを走らせていた。18年前に取材し放送したドキュメンタリーがネットに掲載されることになり、その人に報告と長きにわたる無沙汰を詫びようと思い立ってのことだった。

霊園まであと少しのところ、信号で停車したとき、ハンドルに取り付けてあるナビの端に、黒いてんとう虫がとまった。

とっさに「”彼”が出迎えてくれたんだな」と思い、バイクを路肩に寄せて、カメラをスマホを構えた。「写真撮るから、逃げないでくれよ」と呼びかけた。小さな虫はその通り、シャッターを2回切るまで待ってくれ、そして「もういいかな」と言うように翅を広げて飛び去った。

後で見てみると、見事なピンボケ、苦笑が漏れたが、カメラを向けられるのは嫌いでない、しかし、撮った映像から本心をうかがい知るのにちょっと苦労する”彼”を連想させる写真になったと思う。

”彼”=藤田憲一さんのドキュメンタリーは公開から2か月ほどで140万回再生を超えている。

末期がんで余命宣告された35歳のIT社長。
当時、複数のメディアで特集が組まれ、本人も闘病の傍ら、手記を書き、刊行した。
藤田さんが訴えたかったのは「すがる思いでがんの闘病記を探し、読んでみるものの、皆一様に死を受け入れて亡くなっていく。自分はどんな姿になってもいいから生きたい。がん患者は苦痛に耐えて死を待つばかりの存在じゃないということを、自分が病と向き合い、闘病以外にビジネスも続ける姿を通じて世に知ってほしい」ということだった。

実際、藤田さんの取材が出来たのはほんの半年ほど、けれどその半年、私たちのカメラの前で彼はある種の”超人”と思える行動をいくつも見せてくれた。自身でがん医療について勉強し、医師とは対等に向き合い、自分が納得する治療を選択した。IT社長としてのビジネスも続行し、仲間たちと働いた。自ら見つけ出した治験を受けるために大阪大学病院まで出向き、交渉した。息子を心配して香川から上京してくれた両親にマンションをプレゼントした。インストラクターの資格を持つというスキーも楽しみ、鈴鹿サーキットではオープンカーでの体験走行に挑んだ。

各地で講演も行った。「自己責任」という言葉をつかい、治療は全部先生にお任せします、という患者と医療スタッフの関係では、リスクを恐れた医療の側もベストを尽くせないのだと訴えた。

その間、彼はすさまじい苦痛にさいなまれていた。しかし、カメラの前でも、それ以外でも藤田さんは一度たりとも弱音を吐くことはなかった。
腹部に溜まった大量の腹水を抜くときの痛みに悲鳴を上げても、すぐさま「大丈夫大丈夫」と看護師を気遣い、これ以上の治療は体に負担をかけるだけで効果はないので緩和ケアに移行すべきと医師に告げられても。一言「わかりました」と答えた。

取材中、藤田さんが何度も口にしたのは「つまんねぇこと言っても意味がない」という言葉。人生が自分の思うようにならないからといって愚痴や弱音や恨み言や呪詛の言葉を吐いたって、状況は一つも変わらないから。
でも、人間って辛いとき苦しいときには弱音を吐いていいものじゃないですか?と問うても、「それは意味がないんですよ」と決然と返されるのが常だった。

上に紹介したドキュメンタリー(約38分)の最後に彼が友人と旅をするシーン場面がある。私たちが撮影したのではなく、彼と友人がプライベートで撮ったビデオだ。そこで彼は「いまこのホテルのベッドにいることが最高」と、明るく話している。車での長旅、かなりの苦痛と苦労の伴う旅だったとその友人からはのちに聞いたが、そこでも藤田さんは「つまんねえこと」は一つも言っていない。

彼にカメラを向けさせてもらったのはなくなる2日前だった。付き添う母親や、駆け付けた友人にもサービス精神旺盛に冗談すら言っている姿に、こちらが半泣きでカメラを回していたのが昨日のことのように思い出される。

藤田憲一さんが亡くなったのは2006年10月12日、36歳だった。自宅に戻った藤田さんを会いに行くと、お母様から何本かのビデオテープを託された。彼の死後数か月はそのテープを再生する気になれなかったが、ある日思い切って見てみると、予想もしなかったような壮絶な場面を、彼は”自分で撮影”していた。

そういう、いくつものシーンを積み重ねて作り上げたドキュメンタリーが今、多くの人に再び見られている。それは藤田さんが変えたいと望んだがんと患者、がんと医療の間に横たわる諸問題がまだまだ解決されていないということの証ではないか。今も多くの人ががんと闘い、生きようと強く望んでいる。”たまたまがんでない”私たちも、藤田さんの姿から何かをくみとることが出来るのではないだろうか。

てんとう虫にいざなわれるようにして到着した藤田さんの墓には、最近誰かが参ったことを示す花が供えられていた。彼の意思は誰かに、多くの誰かに、確実に伝わり、引き継がれているのだと思いながら手を合わせた。

墓碑銘は「君を誇りに想う ありがとう」の文字。そうだ。彼は、自身の誇りにかけてがんと闘い、生き抜いたんだ。そしてご家族もそれを誇りに想って彼を送ったんだ、と思った。
花を供え墓石に水をかけると、そのメッセージは春の陽光にきらめいた。

(藤田憲一さんについては、まだまだ書き残したいことがたくさんあるので、後日、また記したいと思います。誇り高くがんと闘った彼の姿を一人でも多くの人に見てもらいたいと願います)

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